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2008-11-29 13:00
御用学者ですらないひとたち
入山 映
サイバー大学客員教授・(財)国際開発センター研究顧問
米国の国家情報会議(NIC)がCIAの建物の中にあるのは、ご存知の方も多いと思う。そのNICは、「何年後の世界」みたいな内容の刊行物がウリの一つで、先週(11月20日)には、「2025年の予測」を公開した(「Global Trends 2025: A Transformed World」) 。ロシア、中国、インドの経済的台頭を予測しているのは当然だが、いづれのことも「国家資本主義」だと見ているのが、面白いといえば面白い。
「世界が多元的なモデルを採るようになるのは必然だ」等と今頃言っているのだから、大した内容ではない、と言えなくもない。この報告書が何年か前に「日本の核武装」を予言したのをご記憶の方もいらっしゃるだろう。日本の役割が低下するのを予言しているのも当然だが、その理由として、少子化と並んで、改革に対する政治的意志の不在、を挙げている。これが、この程度の凡庸な報告書にまで記載される「世界の常識」になってしまったことを、日本の政治家諸氏はご存知なのだろうか。御用学者、「学問的節操を守らず、権力に迎合・追随する学者」(広辞苑)の方々は、「改革の痛みだ」「不平等の拡大だ」等といって、権力にすり寄る前に、この事実をお話しになることをお勧めしたい。
もっとも、最初から学問的節操がなければ、これは御用学者以前だし、元々学者でなければ論外なのは言うまでもない。やや訓詁注釈に陥るが、同じく広辞苑によれば「学者」とは「学問にすぐれた人、あるいは学問を研究する人」で、「学問」とは「一定の理論に基づいて体系化された知識と方法」だという。とすれば、断片的な知識の集積は「学問」ではないし、それにいくら長じていても「学者」とは言わない。だから、そういう人が権力に迎合しても御用学者ではないことは明白だ。御用評論家とでもいうのだろうか。
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