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2008-09-01 11:17
オリンピック開催で求められる文明国水準と中国
舛島貞
大学准教授
オリンピックが閉幕した。1896年に始まった近代オリンピックの歴史において、第4回目の非欧米地域におけるオリンピックであった。東京、メキシコ・シティー、ソウルに次ぐ開催地が北京であった。オリンピック開催地を見るだけでも、北東アジアが非欧米地域において特殊な地位を占めていることが分かる。それは、オリンピックを開催できるだけの経済力と国力を有しているということでもあり、また他方でオリンピック開催が北東アジアでは重視されているということでもある。確かに、東京でも、ソウルでも、時間がたつにつれてオリンピック開催が過去と未来の分水嶺であるように語られるようになっている。
そのように語られる背景の一つに、オリンピックという「みそぎ」を経て自国が国際社会で認められたという自信があるのだろう。アジアでオリンピックが開催されるともなれば、さまざまな偏見や疑いの目線が浴びせられる。スポーツ報道はとかく感情があらわれがちになるので、アジアの開催国は批判に晒されることも多い。その際には、オリンピックを開催するに値する文明国かどうか、という言辞が用いられることがあった。
オリンピックには、スポーツの祭典とともに国際政治に関わるという話があるが、それ以外にもこのような文明国標準が適用されることが、特に非欧米地域開催の場合にはある。この点、北京も例外ではない。というよりも、もっともその洗礼を強く受けた国かもしれない。中国は、環境問題、人権問題などにおいてさまざまな批判にさらされた。このような目線にいらだちをあらわにする外交官もいたが、過去と未来の分水嶺にできるか否かは今後次第だ。
しかし、東アジア共同体をめぐる議論で、民主や自由という論点を「結集」の核にするならば、今回のオリンピックにおける中国側の対応や今後の動向は実に重要なこととなる。今後の中国がオリンピックに疲れきって、民主や自由といった「文明国標準」に忌避感を示せば、それは東アジア共同体論にとっても(中国をまったく排除するというわけにもいかないのだから)厳しい局面を迎えるだろう。そうした点で、アジアにおけるオリンピックは開催国以外にとっても挑戦的な課題だ。すなわち、欧米諸国や日本が中国を突き放さずに粘り強く対話できるかということが課題となるのである。文明国標準適応は一方通行ではなく双方向性に基づくもののはずである。
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