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2008-01-31 19:13
「グローバリゼーション」への適応の今昔
櫻田淳
東洋学園大学准教授
ジョージ・W・ブッシュ(米国大統領)の2008年「一般教書」演説は、経済失速懸念に対する言及から始まった。振り返れば、2002年「一般教書」演説は、イラク、イラン、北朝鮮を「邪悪の枢軸」と呼び、テロリズム制圧と大量破壊兵器拡散の防止への意志を表明した。このことを考え併せれば、冒頭から「経済」に言及した2008年「一般教書」演説の独特の色合いが、浮かび上がってこよう。
2001年9月以来、対テロ国際「協調」の要が説かれたけれども、これからは、「市場混乱」に対する国際「協調」の具体的な手順の構築が要請されることになるのであろう。加えて、「景気失速」懸念に際しても、国際「協調」の必要が指摘されている。また、今夏の洞爺湖サミットにおける中心論題となるであろう地球環境保全も、本質的に国際「協調」を必要とする課題である。
「テロ」も「市場」も「環境」も、これらに絡む話は、総てが「地球が小さくなった」ことの反映である。現在、こうした「グローバリゼーション」の趨勢を批判する議論は、折に触れて示されている。小泉純一郎内閣期以来の「構造改革」路線は、そうした「グローバリゼーション」への適応という意味合いがあったけれども、それに対する批判こそは、紛れもなく、そうした「グローバリゼーション」批判の事例であったのである。
しかし、この期に及んで、「グローバリゼーション」批判をしても意味がない。それは、明治の近代化の時期に「江戸の昔」を懐かしんでいるのと似た雰囲気がある。振り返れば、明治の近代化もまた、19世紀後半の「グローバリゼーション」への適応に他ならなかった。往時の日本の人々は、その必要のために、社会制度も生活風俗も一変させる「構造改革」を断行したのである。現佐の日本の人々は、そのことが何を意味するかを理解しているであろうか。
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