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2007-10-15 14:05
人民網インタビュー「東アジア通貨協調システム」
小川英治
一橋大学大学院教授
去る9月20日に北京で、日本語配信のインターネットである『人民網』から、「東アジアの通貨協調システム」についてのインタビューを受けた。そのインタビューの中で私が強調して指摘したことを、以下に記す。なお、そのインタビュー内容は『人民網』のウェブサイト(http://www.people.ne.jp/2007/09/24/jp20070924_77260.html)に掲載されている。
そのインタビューの中で、我々が1997年に経験したアジア通貨危機から得られた教訓の一つとして、アジア通貨危機以前には地域通貨協調のためのシステムが存在しなかったために、通貨危機時において国際通貨基金(IMF)に駆け込まざるを得ず、そしてIMFによる通貨危機に対する金融支援策が十分ではなかったことから、自前の地域通貨協調のためのシステムが必要であることが認識されるようになったことを指摘した。
1997年7月2日に発生したタイ・バーツ危機に際して、タイ政府はIMFに駆け込んで、実際にIMFからの金融支援が決まったのは8月20日であった。タイ・バーツ危機が発生してからIMFが金融支援を決めるまでに1ヶ月半も要した。この間に他のASEAN諸国に通貨危機が伝染した。さらに、タイへの金融支援の総額が172億ドルであったものの、IMFからの金融支援額は40億ドルに過ぎなかった。むしろ近隣諸国からの二国間の金融支援額が105億ドルにものぼり、タイへの金融支援額172億ドルの大半を近隣諸国に頼らざるを得なかった。このことは、IMFだけではアジア通貨危機を救うことができなかったこと、そして近隣諸国すなわち東アジアの地域金融協力があって初めてアジア通貨危機に対処することができたことを意味する。
アジア通貨危機直後に、アジア通貨基金(AMF)構想が日本とASEANとの間で沸き起こってきた。しかしIMFと重複すること、そして緩やかなコンディショナリティによってモラルハザードが発生する可能性があることを理由に、IMFとアメリカが反対したために、この構想につながる動きは2000年のチェンマイ・イニシアティブまで待たなければならなかった。このときに、中国政府が中立的立場をとり、日本とASEANによるAMF構想に乗ってこなかったことも、AMF構想が実現しなかった理由の一つである。
そして2000年のASEAN+3(日中韓)財務大臣会議においてチェンマイ・イニシアティブが発足することになった背景には、このような中国政府の地域通貨協調に対する中立的な態度が積極的な立場に変わったことがあった。その意味で、中国政府が東アジア近隣諸国とともにアジアにおける地域通貨協調に積極的に関わっていくことが、東アジアの通貨協調システムを構築していく上で重要である。さらに、中国政府を地域通貨協調に積極的に関わらせるには、日本政府の地域通貨協調への積極的姿勢も必須であることは言うまでもない。
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