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2007-03-01 04:00
「アジア的価値」と「時間の論理」
矢野 卓也
日本国際フォーラム研究助手
西欧の政治・社会思想史を概観すると、「時間の論理」と「場の論理」とでもいうべき二つの通奏低音が絡み合って展開していることがわかる。「時間の論理」とは、社会を時系列的に眺め、そこに進歩や退歩あるいは循環といった変化の相を見出す視点である。対して「場の論理」とは、属地的な視点からある土地や風土に固有な政治や社会のあり方を重視する立場である。前者ではヘーゲルやマルクス、キリスト教的終末論やアリストテレスやヴィーコなどがその代表格に挙げられるし、後者ではボダンやモンテスキューそしてヘルダーなどがよく知られている。
いうまでもなく「時間の論理」は、近代世界においていわゆる「進歩史観」としてゆるぎない影響力を持った。「社会進化」、「近代化」、「発展」などと表現が変わってもその意味するところにさほど違いはない。その際「場の論理」は、おおむね「進歩」に抵抗する砦としての役割を担った。言うなれば、普遍に対する特殊の異議申し立てである。昨今のグローバリゼーションのうねりに不満を持つ世界各国での抵抗運動などはその典型であろう。また、時間と場の融合した論理として、いわゆる「多元的発展論」という立場も出現した。
ところで「アジア的価値」というものを考えてみたい。さしあたり二通りの解釈が可能である。かりに「アジアでしか通用しない価値」という意味ならば、これは明らかに排他性を前提とした「場の論理」である。たとえばリー・クアン・ユーなどが語る「アジア的価値」はおそらくこちらに属するものであろう。そうではなく「アジアで誕生した普遍的価値」という意味ならば、地球上に拡散する時間的プロセスを内包する以上、「時間の論理」を導くものである。古代インドで発明された「ゼロ」の概念を「場の論理」だと考える者は誰もおるまい。古代インドは「文明」であった。
すなわち「価値」には内向的なものと外向的なものとがありうるということである。しかも、「価値」がひとたび外向的なものとなれば、それはただちに拡散を始めることになる。拡散する価値を「文明」と言い換えてもよい。近代世界では、「価値」を独り占めしているかのごとくふるまった西欧「文明」が「野蛮」を平定し啓蒙するという構図が成立した。西欧的「時間の論理」が勝ちまさった時代であった。その結果、「場の論理」は「弱者の論理」に近づきすぎたきらいがある。さらにいえば、借り物の論理でもあった。
もはや、アジアは「場の論理」に居直る段階を脱却すべき時にさしかかっているといえる。今求められているのはアジア版「時間の論理」である。「時間の論理」は開放性と先進性を担保する。むろん西欧的「時間の論理」は今後もゆらぐことなくその存在感を誇り続けるであろう。それは歓迎すべきことである。すなわち、アジアと西欧が先進性をめぐって競合する時代の到来である。アジアそして日本はその時代の舵取りをする気概と覚悟があるだろうか。
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