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2015-02-06 06:51
マスコミは「蛮勇」を礼賛すべきではない
杉浦 正章
政治評論家
橋本登美三郎が佐藤内閣の官房長官だったころ、従軍記者の武勇伝を聞いた。朝日新聞の記者だった橋本は部下を15人ほど引き連れて日本軍が占領した南京に一番乗りした。弾丸が頬をかすめるような場所で記事にして伝書鳩で送ったのだ。取材経費の報告に「機関車1台」と書いたというエピソードは有名だ。新聞記者は時には命を的に取材するケースがある。しかし、従軍記者とシリア取材の根本的な違いは、シリア情報そのものには戦争当事国の記者並みの重さがないことだ。ニュース価値は「報道がなくても済むが、あればよい」程度でしかない。報道メディアが自社の特派員を出さずに、フリージャーナリストに多額の報酬を提供して依存する根本はそこだ。もっとはっきり言えば、ジャーナリストが死んだ場合は自己責任だが、自社の記者の場合は億単位の見舞金が必要となる。
故人だから敬称をつけるが、後藤謙二氏の場合は、その意味で哀れではある。本人は死を覚悟しており、テレビで「取材中は一日10万円の誘拐保険に入っている」ということを明らかにしている。最高クラスの保険で、おそらく最大補償額は5億円を下らないといわれている。問題は新聞テレビなどの大手マスコミが、こうした取材に金を出して奨励することだ。週刊文春で紹介されたフリージャーリストの「映像が番組で流されれば、10分間で200万円から300万円ほどのギャラがもらえます」という証言は、おそらく当たらずといえども遠からずであろう。一週間程度の取材なら保険料を払ってもお釣りが来る額だ。テレ朝の報道ステーションがこの「後藤氏美化」で突出している。中東の庶民や子供たちなど弱者への優しい目線を強調して、賛美している。朝日もそうだ。5日付朝刊社会面で、でかでかと「ケンジの思い、広がる共感」だそうだ。「憎しみあいは報復の連鎖しか生まない。それこそが後藤健二さんが命をかけて伝えたかったこと」と賞賛した。
しかし問題は賞賛が及ぼす影響だ。難題山積の重要な時期に政府は首相以下2週間以上を人質問題に忙殺され、それにかかった血税は誰も計算していないが、社会保障に回せば多数の難病の子供の命を救える額であろう。大津波の被災地で苦しむ人たちにも回せたかも知れない。結果的に1民間テレビの視聴率のために、費やす政治資源は計り知れない。それは政府の仕事だからまだいいにしても、問題は無責任な後藤氏賛美と英雄化が社会に巻き起こす影響だ。賛美をすれば、国民は1億2千5百万人いる。次々にまねるものが出てくる可能性がある。イスラム国(ISIL)はこの事件を契機に日本に狙いを定め、テロを起こすと宣言している。日本人とみれば人質にしてプロパガンダに使うだろう。後藤氏は「シリアに入る責任はわたしにあります」と事前に自己責任を強調しているが、1人が死んで済む話ではなくなったのである。日本政府のみならずヨルダン政府まで巻き込み、結果的には死刑囚の死刑執行、ラッカへの空爆など復讐が復讐を呼ぶ事態を招いたのだ。跳ね上がり1人の責任で済む事態ではないのだ。国内にISILの戦闘員が生ずる可能性すら否定出来ないのだ。
この点自民党副総裁・高村正彦は極めて的確な発言をしている。高村は「3度にわたる日本政府の警告にもかかわらず、テロリストの支配する地域に入ったのは、真の勇気ではなく、蛮勇だ」と批判。「後藤さんは自己責任だと述べておられるが、個人で責任を取りえない事もあり得ることを肝に銘じてもらいたい」と述べた。まさにその通りだ。一個人の責任で事は済まなくなったのだ。この問題で国内の議論が沸くのはよいことだが、共産党や民主党が国会で政治利用しようと、首相・安倍晋三の片言隻句をとりあげて「首相責任論」にどうしても結びつけたがっているのはどうかと思う。木を見て森を見ずの議論に貴重な国会審議を費やすべきではない。もういいかげんにしろと言いたい。朝日は6日朝刊で危険地取材についての米国内の論議を紹介している。「(紛争地域の)前線で取材するジャーナリストの重要性を信じている。写真やビデオ、直接の体験なしでは、いかにひどい状況かを本当に世界に伝えることはできない」とか、「ジャーナリストは政府の勧告を考慮に入れつつ、独自に判断をする必要がある。責任あるジャーナリストがリスクを取って報じることが、読者や視聴者の役に立つこともある」などの意見を、もっぱら我田引水型に紹介。見出しに「勧告考慮しつつ独自に判断必要」と取っているが、この辺が同社の言いたいことであろう。しかし「独自判断」で人質になれば、結局政府に救助要請して責任を押しつけるのだろうか。
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