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2012-05-09 10:17
フランスの「政権交代」に寄せて
櫻田 淳
東洋学園大学教授
丁度5年前、筆者は、フランス政府に招かれ、パリにいた。そこで、ジャック・シラクからニコラ・サルコジへの政権移譲の瞬間を観た。そして、サルコジは、5年でエリゼ宮を去ることになる。サルコジは、ある意味で、「不運な」政治指導者である。彼が就任して僅かに数ヵ月にサブプライム・モーゲージの焦げ付きが表面化し、後に続いたのは、リーマン・ショックから欧州債務危機である。こういう局面の「より悪くなることを防ぐ」対応に忙殺されたら、執政の成果を国民にアピールするのは難しい。「より悪くなることを防いだ」成果は、説明が難しいのである。サルコジの執政期、フランス国民の眼に映ったのは、「悪くなった」結果でしかないのであろう。
もっとも、サルコジは、「フランス気質」を余り感じさせない政治家であった。マリーヌ・ル・ペン、フランソワ・バイルといったように、「政策だけなら近そうな政治家」が続々とサルコジに距離を置いたというのにも、そうした事情が反映されていよう。それに比べれば、フランソワ・オランドは、「普通のフランス政治家」である。ただし、オランドは、サルコジが「小賢しい」趣きを持っていたとすれば、「小物」臭が濃厚に漂う。フランソワ・ミッテランの「カリスマ性」を思い起こせば、そのことは瞭然としている。故に、オランドが政権の座に就いたところで、フランスの直面する状況が劇的に好転するわけでもあるまい。
フランソワ・ミッテランが政権の座に就いた時、その当初の社会主義的な経済政策は、無残な失敗に帰した。ロナルド・レーガンやマーガレット・サッチャーは、ミッテランの失敗を横目で見ながら、その「新自由主義」施策を加速させた。だから、1980年代以降の「新自由主義」路線の乳母役を果たしたのは、実はミッテランである。その後、ミッテランは、「コアビタシオン」(保革共存政府)を形成し、首相に任じたジャック・シラクに内治を任せることで、経済復調を実現させた。翻って、オランドである、彼は、年収100万ユーロの層には所得税75パーセントとか、15万ユーロの層には所得税45パーセントとかという政策を出している。「パイを増やす」方策を出せていないのが、相変わらずといったところか。
彼の執政初動において注目すべきは、ドイツとの関係である。おそらく、サルコジがアンゲラ・メルケルととともに積み上げてきたような「欧州債務危機」対応策を一気に反故にするような対応は、できないであろう。彼に手掛けられるのは、財政支出による景気刺激の余地を幾分か広めるという程度の対応であろう。そうでなければ、オランドは、メルケルの顔を潰すことになる。オランドが対独関係において「我を張る」ようなことをしたら、ヨーロッパの将来も危ういであろう。古今東西、どの国々でも、「緊縮政策」は評判が悪い。民衆は「ばらまき」が大好きである。だが、その後には、失望が来るのである。
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