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2012-03-07 18:41
「友人」と呼ばれなかった習近平氏
高畑 昭男
ジャーナリスト
中国の次期最高指導者と目される習近平国家副主席の「米外交デビュー」が終わったが、訪米中の習近平氏による数少ない演説の中で、「友人を評価する真の基準は言葉ではなく、行動だ」というジョージ・ワシントン初代米大統領の格言を引用していたのが目を引いたそれは訪米3日目の15日、ビジネスや財界関連の友好団体が首都ワシントンで主催した昼食会での演説だ。事前に「重要政策演説」と銘打った割には約15分と短く、中国側報道などによると、米国に対して「一つの中国」政策を守り、台湾やチベットなどの「核心的利益」の尊重を行動で示すよう求めることを柱とした内容だった。従来の中国の主張と比べて、取り立てて大きく変わったところはない。だから、習氏の演説について「スタイルは違っても、中身は同じ」と評した米メディアもあった。
私が注目したのは、問題の初代大統領による格言が「互いの利益を尊重しなければ、信頼は築けず、両国関係も危うくなる」と、米側に警告している文脈で使われていたことだ。習氏にすれば、「中国の友人でいたければ、中台問題やチベットの人権問題などに口をはさむな」といいたくて、初代大統領の格言を持ち出したのかもしれない。しかし、興味深いことは、米側に「友人」として習氏に向き合うような動きがなかったことである。習氏の演説について報じた米主要メディアでも、この格言にまで触れた記事は見当たらなかった。また、習氏はオバマ大統領らとの会談や国務省で開かれた歓迎昼食会での公式発言でも、「友人」という呼びかけを連発していた。ところが、これに比べて政権側ではクリントン国務長官が「米中間の友情」に言及したのを除き、習氏を親しく「友人」と呼びかけた人はまずいなかったのだ。
習氏が引用した格言は、いうまでもなく互いに「友人同士」でなければ成立しない。だが今の米政界は大統領選という熱い「政治の季節」のさなかにある。米中の膨大な貿易不均衡、人民元をめぐる対立、人権問題などに対する中国批判の強さなどをみれば、オバマ氏に限らずとも、中国やその次期最高指導者を「友人」と呼ぶのは政治的自殺行為に等しいという事情もあっただろう。平たくいえば、習氏が「友人」や「友情」をテコに米国に外交的圧力を加えたくとも、米政府、米政界には習氏を「友人」と呼ぶ基盤は存在しない。そんな「片思いの現実」が今回の訪米ではとりわけはっきりと見えたように思うのだ。オバマ氏は中国を「戦略的パートナー」とし、ともに「21世紀を形成する関係」と位置づけて「前向きで協力的で包括的な協力関係」を目指す戦略・経済対話を重ねてきた。
しかし、そのことと、例えば日米同盟のような「同盟・友好」の関係とはおのずから違う。東日本大震災時の日米共同作戦がごく自然に「トモダチ作戦」と命名され、両国民を勇気づけたこととは対照的だ。ちなみに、ワシントン初代大統領には「自らの評判を大切にしたければ、良質の友を持つべし。悪い仲間と組むよりは孤独のほうがましだ」という格言もある。今の中国に対する米国の政治感覚は、こちらのほうがずっと近いのではないかと感じる。習氏といえば、日本では芳しからぬ記憶がある。鳩山由紀夫政権下の平成21年12月に訪日した際、小沢一郎・民主党幹事長(当時)がルールを無視して天皇陛下との特例会見を実現させたことだ。与党の権勢をかさに着たごり押しは、日本で友人を増やすどころか、かえって正反対の結果を生んでしまったことは記憶に新しい。中国にも「己に如からざる者を友とするなかれ」(自分よりひどい人物を友にするな)という「論語」の格言がある。真の友人を選ぶのはそれほどに難しいことだ。生兵法で米国の格言を使ったりする前に、習氏は孔子に学ぶべきだったかもしれない。
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