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2011-02-06 00:27
民族うちそろって「ひきこもり」状態の日本
入山 映
サイバー大学客員教授・(財)国際開発センター研究顧問
70年代の終わり、米国に住む機会があった。その頃どうにも違和感があった、つまり日本ではおめにかからない種類の居心地の悪さを感じたのが、所かまわずスプレーで書きなぐるグラフィティといわれるもの、ペーパーバッグ・レディ(全財産を大きなペーパーバッグに入れて持ち運ぶ)と称される路上生活者、それに貧困地域の荒れ果てた公共空間だった。ところが、最後の一つを別にすれば、10年も経てば日本でも当たり前になってしまった。善きにつけ悪しきにつけ、といいたいところだが、ことは専ら悪いこと専門で、しかもこちらの方は完全に輸入超過が続いている。これは40年前の話だから、今ではもっと伝播の時間は短くなっているのだろう。
その限りで言えば、今日ただいま米国に見られて、日本では見られない社会のひずみというものの筆頭は、ホームレス高校生の存在だろう。一説によれば、現在百万人を超えるホームレスの高校生が米国にはいるのだという。両親が行方不明というケースで、これには移民事情も預かって力があるようだから、にわかに日本と比較するのは当を得ないかもしれない。願わくば、こんな風潮は輸入されないと良いと思うのだが。
米国が出生率低下に伴う人口減少を免れているのは、大幅な移民を受け入れているためである。その副産物とも言うべきなのが、若いカップルが子供を置いて、いなくなったりするケースだという。日本の外国人受入れは、ほとんど禁止的と言ってもよいほどだ、と悪評が高い。限定的な受け入れだから、至れり、尽くせりかといえば、さにあらず。失業率の高さだ、就職難だという一方で、低賃金の外国人労働力依存の産業があってみたり、それを食い物にしている悪いやつが横行する。看護士を受け入れようとすれば、日本語習得で禁止的な障害を設けた上に、看護士として勤務する一定期間が過ぎた後でさえ、それ以外の職に就くことを禁止してみたり。要するに、一昔前の「日本ユニーク論」の焼き直しのような政策、あるいは政策の不在が、大手を振ってまかり通っている現状だ。
逆向きに見ると、海外留学生の減少とか、異文化に対する興味の減退ということになるのだろうか。民族うちそろって「ひきこもり」を決め込んでいるようにみえる。それでうまくいっているのなら、それはそれなりということなのだろうが、事情は知っての通りだ。「大学卒業者の就職率が低い」と大騒ぎするが、それこそ40年前に比べて、大学卒業者の数がどれほど増加しているかを考えあわせれば、当たり前だろうとしかいいようがない、のと似たような話だ。原因のない結果はない、というだけのことだ。
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