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2010-04-08 19:53
朝日新聞社説の「正論」ぶりの夜郎自大
入山 映
サイバー大学客員教授・(財)国際開発センター研究顧問
4月4日の朝日新聞の社説は、ミャンマー「茶番選挙は許さない」と鼻息が荒い。内容はといえば、軍政の行なおうとしている選挙がいかに不当なものであるか、云々といった、誰でも知っている域を出ない。天に代って不義を討つ意気込みは結構だが、夜郎自大というべきか、意気込めば意気込むほど滑稽感が拭えない。正論も結構だし、「許さない」とのたもうている分には気分も良いだろう。しかし、ミャンマー情勢に何の影響も与えない遠吠えに、どれほどの意義があるだろうかと思う。
何につけても「適切な対応が望まれます」と締めくくるNHK流儀も苦笑ものではあるが、クオリティ・ペーパーを自認するのならば、ストレートに善悪・黒白についての感情表現を行なって満足しているのでは、いずれを菖蒲・杜若の風情である。ただ、世の中には箸にも棒にもかからないてあいが存在するのは事実だ。腹立たしい限りだし、短兵急な解決法が存在しないとあってみれば、世論を醸成しつつ、気長に取り組んでゆかざるを得まい。だからといって、速効性のある議論が出来ないという手詰まり感を、誰も反対できない正論を大声で唱える事によってしか表現できない、というのではとてもプロの議論とはいえない。
本来こうした言説は、具体的政策の当否、あるいは代替案の現実性などを中核になされるのが当然だろう。ミャンマーであれば、国際世論形成の現状と問題点。さらには経済制裁の実効性と解決策。具体的には、中国のなりふりかまわぬ安全保障・資源政策によって経済制裁が骨抜きになっているとすれば、中国の協力に向けての説得に日本がなしうることの検討。さらにはスー・チーさんのNLDに対する迫害の実態とその客観的報道の現状。そうした積み重ねと我慢強い継続をいい加減にして、フラストレーションを「許さない」という大時代的な表現で発散しているだけでは、なんのことはない、何十年か以前の混乱状態の悪夢を誇大に投影して、「法と秩序」の代弁者として自らを位置づける愚かな将軍たちと、同じ事をメディアがやっていることになるではないか。
労多いわりには報いられる事の少ない地道な積み重ねに代って、「見てくれ」と口当たりの良い思いつきに飛びつきたくなるのは、世の常とみえる。水戸黄門の時代ではあるまいに、カフェを開いたり、見栄えの良いお取り巻きの意見に耳を傾けるポーズに淫しがちな政治家がいても不思議ではない。しかし、メディアがそれをやるようになっては、デマゴーグ、yellow journalismへと真っ逆さまに堕ちる。
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