政策本会議

第96回政策本会議
「日ASEAN相互外交支援の50年:なぜ地域主義は東南アジアを超えてきたのか」メモ

2023年7月24日
東アジア共同体評議会(CEAC)事務局


報告のようす

第96回政策本会議は、寺田貴同志社大学教授を報告者に迎え、「日ASEAN相互外交支援の50年:なぜ地域主義は東南アジアを超えてきたのか」と題して、下記1.~6.の要領で開催された。


  1. 1.日 時:2023年7月24日(月)16時より17時30分まで
  2. 2.開催方法:日本国際フォーラム会議室にて対面およびZOOMウェビナーによる併用
  3. 3.テーマ:「日ASEAN相互外交支援の50年:なぜ地域主義は東南アジアを超えてきたのか」
  4. 4.報告者:寺田 貴 同志社大学教授
  5. 5.出席者:34名
  6. 6.審議概要

  寺田貴同志社大学教授から、次のとおり基調報告があった。

(1)はじめに

本年は、日ASEAN友好協力50年という歴史的な節目である。これまで日本は、アジア太平洋、東アジア、インド太平洋など、地域概念を変えながらアジアを中心とした「広域」地域主義外交を展開してきたが、そこには一貫してASEANからの賛同と関与があった。そしてそれは、日本が「広域」地域主義外交を進めるにあたってASEANの利益や関心があるアジェンダセッティングをしてきたからであり、このように日ASEANの間には互いに支え合う相互支援外交が、この50年の間、脈々と繋がれてきたのである。

(2)ASEANの抱える問題とその可能な処方箋を日本外交が提供してきた50年

ASEANは、ベトナム戦争の最中、1967年に5か国で設立された。当初は現在のように地域主義を掲げておらず、それぞれの国は自国を国家として成り立たせるために多忙を極めており、互いの邪魔をしないためにも内政不干渉を基本原則として確立してきた。冷戦終了後、ASEANとして経済領域を中心に地域協力を進めていくが、例えばASEAN 自由貿易地域ができてもEUのように共通関税があるわけでもなく、共通通貨を創設しようとする気運もない。それぞれの主権の維持が最重要であり、こうした内政不干渉など含めた所謂「ASEANウェイ」は、ASEANにおける構造的な課題となっている。また、ASEANの域内貿易は構造的に一貫して低調であり、日本や米国、中国など域外巨大市場を常に必要とし、それらの域外諸国との協力が不可欠であることは、ASEAN協力の重要な特徴である。
 日本は、古くは大平正芳首相(1978~80)の「環太平洋連帯構想」などをはじめ、歴代首相の演説などからみても、東アジア、アジア太平洋における指導国家としての意識をもっており、短期的な問題解決型と長期的な構想志向型による2つの地域主義政策を使い分けながら地域外交を展開してきた。こうしたなかで、10カ国を有するASEANの支持は日本の地域イニシアチブには不可欠である。また前述のように、ASEANは日本など域外国の域内協力支援を渇望していることからも、自らの協力に加えて域外国を含めた広域協力枠組みをも志向しており、日本がASEANを支援し、ASEANは日本を支持しその地域主義を支えるという関係が築かれる要因は構造的に存在してきたと言える。

(3)日ASEAN関係と日本の広域地域主義外交の変遷

日ASEAN関係と日本の広域地域主義外交は、まずその時々の地域に属する各国の外交政策にも影響を与えるような地域構造変化と日本の地域戦略があり、そしてそれらの中で地域制度が形成されてきた。それらは概ね次の6期間にまとめることがきる。
 まず第1期は、1970年代中頃である。この当時日本は、1966年にADBの本部を東京にもってこようとしたが結果的にフィリピンに敗れたこと、また1974年の田中角栄首相の東南アジア歴訪の際にバンコクやジャカルタなどで暴動を招いたことなどから、より関与と支援を含めたASEAN重視の外交政策に舵を切ろうとしていた。その際、地域構造変化として75年にベトナム戦争が終結した。これを受けて翌76年にASEANは、第1回のASEAN首脳会議を開催した。ASEANは、ベトナム戦争終結による米国の撤退によって生じる力の空白を日本に埋めてもらうべく、77年にフィリピンのマルコス首相が訪日し、日本のASEAN関与を求めた。これによって、日本は地域制度としてASEANを重視する外交方針が決定され、以降の「福田ドクトリン」の打ち出しや、ASEANへの集中的なODA増加などにつながっていく。
 第2期は、1980年代中頃である。この時期の地域構造変化は米国と日本、アジア諸国との通商摩擦、そしてプラザ合意の結果である。プラザ合意により日本は急激な円高となり、これに対応するために日本の製造業界はASEANに直接投資を通じて工場などを新設し、ASEANを通して米国に輸出する構造をつくりあげた。またそのことで、特にビジネス面での日本とASEANの関係が深まった。他方で、米国にとっては貿易黒字の矛先が日本からASEANに移ることにもなり、日本は、経済に関して米国との間で二国間ではなく多国間で対話する場を必要とした。そしてASEANの経済協力への関心を読み取った日本の通産省はアジア太平洋の経済協力対話を提案、それに呼応した豪州のイニシアチブにより1989年にキャンベラにて「アジア太平洋経済協力対話(APEC)」が設立される。日豪はASEANの意向を重視し、2年に1回はASEAN加盟国での開催の要求を受け入れるなどして、その取り込みに務めた。
 第3期は、1990年代後半である。この時期の地域構造変化は97年のアジア通貨危機である。これに対応するために、日本の大蔵省は「アジア通貨基金(AMF)構想」を打ち出す。これが北東アジア(日中韓)と東南アジアを結合した「東アジア」という新しい地域概念の嚆矢となった。AMF構想は米国の反対で頓挫するものの、ASEAN+3(APT)という新たな地域制度が構築されることになり、日本は2001年の2国間通貨スワップ協定網(チェンマイ・イニシアチブ)設立を主導する。なおこの通貨危機の際に、中国は人民元を切り下げないという対応をとってタイなどの輸出促進を助けたことで、中ASEAN関係を好転させ、2000年の中国によるASEANとのFTA提案の基礎を築いた。アジア通貨危機は中国の地域協力関与を促し、米国を排した東アジア地域主義の出現を促した点で、重要な地域構造変化となった。
 第4期は、2000年代中頃である。この時期から中国はASEANに積極的に関与するようになる。例えば、内政不干渉原則などがあるために日豪が躊躇した「東南アジア友好協力条約(TAC)」にいち早く調印するなど、中国はASEANが求めることを認めるような「地域魅惑外交」を展開し、この時期の地域構造の変化を引き起こした。しかしこの時期に日本は、「東アジア」から豪州やインドを入れた「拡大東アジア」という地域概念を打ち出し、「東アジアサミット(EAS)」形成において主導力を発揮する。しかし、中国という新たな地域制度国との競合が激しくなっていく時期でもあった。
 第5期は、2010年代中頃である。この時期の地域構造変化は中国の強硬外交とアメリカのアジア関与である。2010年に、訪中した米国高官に対してチベット、台湾と同様に南シナ海は中国の「核心的利益」とする旨の発言を行ったが、実際に中国はそれまでとうって変わって、領海問題などで自国の主張を強硬に進める外交を展開するようになった。こうした中、米国はTACに調印してEASに参加し、以降EASのアジェンダを変更し、南シナ海問題が中心に取り上げられるようになる。また安全保障面だけでなく、米国は経済のルールをアジアにも広めるためにTPPを打ち出していく。日本は特に安倍政権になってからこのTPPを積極的に推進し、価値を共有する「有効国」間で中国牽制網形成とアジア統合推進を同時に進めていくことになるが、対ASEAN5原則の発表など、ASEAN取り込みの努力も重ねた。
 最後の第6期は、2010年代後半以降である。この時期の地域構造変化は米中覇権競争であり、日本は、その中心的な位置にある「インド太平洋」という新しい地域概念を打ち出し、さらに価値観とルールを付与したFOIP構想を外交政策の前面に掲げた。BRIへの対抗措置としてFOIPの戦略性は米豪印欧などから支持を得る一方、巨大構想に自身の埋没への懸念を抱くASEANを取り込むべく、日本はASEANが打ち出したASEAN版インド太平洋構想(AOIP)との協調を推進し、ASEANを自由で開かれた価値観を持つサイドに引き留める外交努力を継続している。

(4)日本地域主義外交とASEAN の今後

ASEANの3つの共同体の観点から日本のASEANに対する地域主義外交を振り返ると、経済共同体においては、ODAからFDIそしてFTAへ変化しながらその関係を拡大してきた。政治共同体においては、日本は常にこの地域の構想に米国を加えるといった米・ASEANをつなぐという意識をもち、努力をしてきた。社会・文化共同体においては、特に若い世代のGENESYSや留学支援等など福田ドクトリン以降の「心と心の」交流を続けてきた。現在、激化する米中覇権競争という国際構造のなかで、経済的にも政治的にも新たな「ASEAN ディバイド」が拡大している。そして中国の「一帯一路」がASEANディバイドへの一つの解決策として域内に浸透するなか、日本ブランドのFOIPを確立させることが日本外交の急務となっている。特に、AOIPとFOIPを融合が実現するのかどうか、そのロードマップ作りなど、より具体的な作業が必要である。また有識者などの間では、ASEANにおいて、ミャンマーの民族・人権問題、南シナ海問題などから、これまでASEANの統治原則であった「ASEANウェイ」や「ASEAN中心性」の見直し論が出ている。さらにミャンマーの除名を訴える声も出るなど、日本がそのアジア外交の主要なパート―ナーとしてきたASEANの統治原則が崩れる可能性が生じている。日本はこの可能性を視野に入れたアジア秩序作りへの関与を考慮すべきである。
 そうしたなかで、米国が打ち出した「インド太平洋経済枠組み(IPEF)」をASEAN外交に絡めることはその優先課題となるのではないか。IPEFの協力では、中国が市場を武器に自らの意向を実現させる貿易の武器化などが展開する中で、有志国間でのサプライチェーンの再構築が急務である。中露が参加するEASの具体的な協力推進が難しい中、米国とインドがともに参加する多国間地域枠組みはこれまでになく、IPEFを通じた日本と米印の協力、特に巨大市場国同士のサプライチェーン協力が可能になる。なおIPEFにはASEAN7か国しか参加していないが、かつて安倍首相が表明した「対ASEAN外交5原則」でも「ASEAN」ではなく「ASEAN諸国」とするなど「有志国」の有無は意識している。日本は、このIPEFにASEAN全体の利益を組み込み、そして価値を共有するASEAN「諸国」の積極的関与を促すため、半導体サプライチェーンなど「有志国国間」での確立や南シナ海や東シナ海のガバナンスに有効な法の支配のより強い推進を盛りこむことができれば、IPEFの有効性の意義をASEANにも訴えることができるであろう。

以上
文責:事務局