政策本会議
第93回政策本会議
「人民党政権の対中傾斜とカンボジアの内政動向」メモ
2022年11月14日
東アジア共同体評議会(CEAC)事務局
第93回政策本会議は、山田裕史新潟国際情報大学准教授を報告者に迎え、 「人民党政権の対中傾斜とカンボジアの内政動向」と題して、下記1.~5.の要領で開催された。
- 1.日 時:2022年11月14日(月)14時より15時30分まで
- 2.開催方法:オンライン形式(ZOOMウェビナー)
- 3.テーマ:「人民党政権の対中傾斜とカンボジアの内政動向」
- 4.報告者:山田 裕史 新潟国際情報大学准教授
- 5.出席者:39名
- 6.審議概要
山田裕史新潟国際情報大学准教授から、次のとおり基調報告があった。
(1)はじめに
現在のカンボジア、フン・セン首相の人民党政権は、1979年にベトナム軍侵攻によってポル・ポト政権が打倒された後、ベトナムの支援を受けて誕生した。その後同政権は、ポル・ポト政権時代の大虐殺からの再建、勃発した内戦への対応に追われ、91年にパリ和平協定が締結されて国連の暫定統治下に入り、93年に現在の憲法が制定されて今に至っている。人民党は79年以来一貫して政権を維持しており、フン・センは85年1月に32歳で首相に就任して以来38年目に入っている。
カンボジアに対しては、国連暫定統治またその後の選挙の実現によって民主化したと見られる向きもあった。確かに民主的な政治制度は導入されたが、実態としては権威主義体制が続いてきた。しかも、近年では最大野党が解党されたり、人民党が国会のすべての議席を獲得したりと、より独裁色を強めている。この状態は、90年代以降の一時期、選挙によってある程度野党も議席を獲得できた「競争的権威主義体制」から、「覇権的権威主義体制」へ移行しているということができるであろう。
2000年代以降、カンボジアは中国への傾斜を強めている。フン・セン首相は、昨年日本のメディアの前で「中国は橋や道路といったインフラの整備で支援してくれている。中国以外に、カンボジアは一体、誰を頼ればいいというのか」という発言を行った。かつて中国はポル・ポト政権を支援しており、人民党にとって最大の敵であった。しかし、2000年代にカンボジアで内戦が完全に終結して開発が本格化している時期に、中国は貿易・投資・援助の「三位一体」型の経済進出を行い、今では前述のフン・セン首相の発言とともに、「諸悪の根源」から「もっとも信頼できる友人」とまで呼ばれるように変化している。
(2)外交政策の特徴と変遷
次に、カンボジアの外交政策を規定する地理的条件と歴史的背景についてみていきたい。カンボジアは、地理的にタイとベトナムという強国に挟まれており、この両国の脅威から如何にして独立を維持し領土保全をするのかが、現在に至るまでの一貫した課題である。カンボジア内では、「栄光」のアンコール期(802~1431年)と、シャム(タイ)とベトナムによる領土蚕食を受けた「衰退」のポスト・アンコール期(1431~1863年)、という歴史観がある。この「衰退」のなかで当時のカンボジア国王が、1863年に領土の維持を図る目的でフランスとの保護条約を締結し、以降90年間フランスからの植民地支配を受けるようになった。このように、タイとベトナムからの脅威と領土喪失、地政学的な苦境への対処として、地域外の大国に支援を求めるという歴史的経験が、独立後のカンボジアの外交政策を規定しているといえる。
フランスからの独立後の歴代政権において、シハヌーク政権は、当初非同盟・中立の立場をとって、米ソ両方から援助を引き出していたが、ベトナム戦争の拡大などから米国と断交し、中国との関係を強化した。シハヌークがクーデターによって解任され、次のロン・ノル政権は、軍事的・経済的に米国に全面的に依存した。その次のポル・ポト政権は、一転して中国の支援を受け、ベトナムを第一の敵として越境攻撃をしかけるなどしたが、最終的にはベトナム軍の侵攻によって倒されることになる。そのベトナムの支援を受けてできた人民革命党政権は、それ以前の3つの政権を支えたシハヌーク派、ポル・ポト派、ソン・サン派による3派連合政府と内戦に突入した。この3派連合政府には、米国、中国、ASEANが支援を行った。
前述のとおりこの内戦は、91年に終結し、93年からフンシンペック党と人民党を中核とする連立政権となっていくが、それまでの経験から、外交の基本原則として永世中立と非同盟政策を採用するようになった。そしてASEAN加盟を目指すとともに、開発援助の獲得に向けて欧米諸国や日本との関係を重視した。
(3)対中傾斜の経緯と現状
こうした中で、中国は、人民党とどのように和解し接近することができたのか。中国は、先述の1993年にフンシンペック党と人民党を中核とする連立政権が発足すると、シハヌーク国王との歴史的な親密関係から王党派のフンシンペック党を支援した。しかし、フンシンペック党のラナリット第一首相が、輸出相手国や開発援助のドナーとして米国、また台湾を重視したため、中国は連立政権のもう片方の人民党との和解を模索し始めた。96年に、中国は人民党のフン・セン第二首相を北京に招聘し、中国共産党と人民党との党関係の構築に合意した。翌97年の「7月政変」でフン・セン第二首相が実権を掌握すると、この政変を選挙結果を覆すクーデターだとみなした欧米諸国や日本による開発援助の凍結、ASEAN加盟の無期限延期、国連総会におけるカンボジア議席の空席扱いなどによって、カンボジアは国際的に孤立させられた。そんな中、中国はフン・セン体制を承認し、カンボジアに対する国際的な制裁に反対したほか、カンボジアの内政に干渉しないように訴え、軍事援助と開発援助を行った。それに応えるようにフン・セン第二首相も「一つの中国」原則への支持を表明し、人民党と中国共産党は急速に接近していった。この翌年の98年に総選挙が行われて人民党が勝利し、それまでの2人首相制が廃止され、フン・センが単独で首相に就任すると、それまでの党同士の関係だけでなくカンボジアと中国の国家間としても急速に接近していった。
2000年以降、経済面では、カンボジアにとって中国は米国に次ぐ第二位の輸出相手国、最大の輸入相手国・投資国・二国間援助供与国となった。軍事面では、カンボジアは2010年から始まった米国との合同軍事演習を2017年に中止し、その代わりに2016年と2018~2020年に中国との合同軍事演習を実施している。さらにカンボジアのリアム海軍基地を、中国にのみ利用させる秘密合意がなされていると言われている。外交面では、カンボジアはASEANの中で中国の立場を代弁する「中国の代理人」と呼ばれるようになっている。カンボジア国内で逮捕された台湾人容疑者を、2016年以降台湾でなく中国へ移送するようにもなった。こうして、カンボジアは中国と接近し、その対中傾斜は様々な国家方針でもあらわになっている。
(4)内政動向から見た対中傾斜の要因
次に、内政動向から見た対中傾斜の要因についてみていく。まず国内の変化として、2003年に反タイ暴動が起き、さらに2008年からタイとの国境紛争が起こり、2回にわたりタイとの関係が悪化した。この時カンボジアは、ASEANを通じた紛争解決を求めたが機能せず、カンボジアからのASEANに対する信頼が低下した。またベトナムとの関係において、カンボジアでは、2013年の総選挙で反ベトナム色の強い救国党が躍進した。それによって人民党としても、ベトナム人不法移民の国際退去など、ベトナムに対してより強気な政策を取らざるを得なくなっていった。しかし、2017年の地方選挙でも救国党が躍進し、結果、人民党は救国党を解党に追い込むなどの措置をとった。このことで、欧米との関係が悪化し、カンボジアはEUから制裁を課されるようになった。このように、タイとベトナムという両隣国との関係が不安定化し、かつ欧米諸国との関係が悪化するなか、中国が経済的・政治的に人民党体制の存続を支える存在になっていったのである。
では、日本との関係はどうなのか。日本とカンボジアは古くからの友好国であり、親日感情も強く、両国の間では2007年の「新たなパートナーシップ」、2013年の「戦略的パートナーシップ」、そして2023年には「包括的戦略的パートナーシップ」を結ぶことで合意されている。とはいえ、日本には憲法上の制約があり、また国連安保理の常任理事国でないことから、その軍事的・戦略的役割には限界があるとカンボジアでは認識されている。
以上述べてきた内容から、人民党政権は、ASEANだけではカンボジアの安全保障と経済発展を実現できないとみているが、とは言え中国へ過度に依存するリスクも認識しており、ASEANと日本との連携を重視し、他の地域や世界の大国との関係強化を模索しているとみられる。人民党は元々プラグマティックな政党であり、その最優先事項は体制維持である。現在の極端な対中傾斜はそうすることに実利があるためで、今後の内政動向によってはそれが変化する可能性は十分にある。
(5)集団的権力継承へ向けた動き
カンボジアでは、人民党支配の長期化によって、フン・セン首相個人による支配の強化も進んでいる。2015年に、フン・セン首相のライバルと目されていたチア・シム党首が死去したのち、フン・センは「カンボジア人民党の核心であるフン・セン殿下」、「平和の立役者」や「平和の父」などとみなされ、フン・センをカンボジアの核と位置付ける動きが活発化している。その動きとあわせて、フン・センの長男への世襲へ向けた動きも顕著になってきた。首相長男のフン・マナエト国軍副総司令官兼陸軍司令官は異例の速さで党内の主要なポストを獲得し、フン・セン自身がこの長男を後継者として指名した後には、党の中央委員会総会は全会一致でマナエトを「将来の首相候補」として選出した。2022年には首相選出に関する憲法の条項が改正され、フン・セン首相が党首の権限で長男を首相にできる体制が整い、長男への世襲へ向けた動きが表れている。
ただ、権力の継承が世代間で行われようとしているのはフン・センに限った話ではない。2010年代後半以降、人民党高級幹部の子弟が党指導部入り、国家機関でもポストを獲得しており、カンボジア版の「太子党」が台頭している。彼らは自身の父親の影響下にある省庁や、父親の選挙区などでポストを獲得し、フン・センを中心とする少数の支配者集団からその子供への集団的な権力継承が行われている。
今後の「フン・セン体制」の行方として、マナエト新首相の誕生が、早ければ2023年総選挙後から2028年総選挙の間に起きる可能性がある。ただ、フン・センが首相退任後も党首にとどまれば、実質的な「フン・セン体制」は継続していくため、新首相誕生後も、カンボジアの内政および外交政策に急激な変化は見られないだろう。
また、もしこのまま次世代への権力の継承ができたとしても、父親たちの世代のように40年近く結束を続けることができるのか、カンボジアは指導者の交代が制度化されておらず、フン・センがいなくなったあとにどうなるのかは、必ずしも見通せない。このことは、今後のカンボジアの外交を考える上でも重要なポイントとなるだろう。
以上
文責:事務局