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2006-04-08 00:00
知的プレゼンスとしての共同体
藤田 渡
大学教員
「東アジア共同体」という言葉は、私たちをはじめこの地域に暮らす人々にはみな魅力的に聞こえるだろう。植民地支配、第二次世界大戦、インドシナ戦争、東西冷戦―そのなかには現在の国家や地域のあり方の基礎となった物事もあったが、地域の人々は分断され惨禍を蒙ったことは間違いない。だから具体的にどのようなものになるのかはっきりしないけれど「東アジア共同体」という言葉には何か魅かれるものがあるのだろう。
枠組みとか制度に先行して経済統合は相当進んでいる。そして各国の政策面での協力の枠組みが議論されている。さらに、日本における少し前のインド映画ブームや最近の韓流・華流ブームのように、テレビドラマや映画、漫画、音楽といったポップ・カルチャーも各国で相互乗り入れが進んでいる。
しかし最も注目すべきなのはモノ・金・情報の行き来よりもむしろ人の往来とつながりではないか。東アジア地域をさまざまな目的で人が行き交う。ビジネスの場合もあるし、官僚・政治家や学者が会談することもあろう。「出稼ぎ」もある。これまでになく東アジアの人々が相互に直接、知り合い、つながる密度が高くなっている。メディアを通した情報だけを元にアタマのなかで考えるのとは全く異なる他者像がそこでつくられるだろうし、つまらない偏見や誤解を避けバランス感覚の伴った「地域世論」のようなものが生まれる素地ともなろう。
人々がそうして交流する、「仲良くなる」、というのはそれ自体、素晴らしいことなのだが、もう一歩進んで独自性のある知的な基盤に発展させてゆくべきであろう。例えばヨーロッパのどこかの国の街角を歩けば、政治家の声明など聞かなくても、この人たちはアメリカ中心のグローバリゼーションとはあるところで一線を画した生活を目指しているのだな、と一見してわかる。「東アジア共同体」は欧州連合のような強固な国家連合を目指すのかどうか議論が分かれるところだが、少なくとも、社会のあるべき姿について独自の考え方を打ち出すことができるようにしたいものだと思う。復古的な「アジア主義」というよりもう少しリアリズムのある、しかしこの地域に古くからある文化・文明の伝統や人々の生活に根ざしたような知的な基盤を共有し発展させることが「東アジア共同体」の根幹になってゆくのだと思う。
そういう意味で、「東アジア共同体シンクタンク・ネットワーク」のような仕組みが盛り込まれているというのは大きな可能性を感じさせる。より多方面な議論が緊密に展開されてゆくことを切望する。
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