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2009-03-24 00:00
最後に「富士山が見たい」と言った吉田茂
杉浦正章
政治評論家
数々の戦後政治の舞台になった大磯の吉田邸が消失した。誠に残念である。1967年10月20日吉田茂が死去したとき、張り込んでいたが、最後の言葉は死ぬ2日前の「富士山が見たい」だった。三女和子が窓を開けて抱き起こして、見せたという。吉田最後の言葉が象徴するものは、至誠と愛国の情だったのだろう。信条を貫き戦後日本の礎を築いた吉田。草葉の陰で混乱の極みとなった日本の政治の現状を見て、何と思っているだろうか。邸宅は 「吉田御殿」と呼ばれ、当時の政治家が 「大磯参り」をしたことで知られる。吉田番記者は門前の米屋の2階を借り切って、動静をチェックしていた。
吉田学校の生徒を保守本流というが、その申し子佐藤栄作日記を読むと、吉田邸詣でが頻繁だ。1966年1月1日は「大磯に吉田翁を訪問。池田亡き後は正月に来るものがいないから是非来てくれ、とのたっての電話。余り縁起でもないと思ったが、年寄りのこと故、曲げて訪問した」とある。同年は7回にわたり訪問している。死去したとき、佐藤は日比首脳会談でマニラにいたが、日記には「東京に電話し木村官房長官と連絡、国葬儀をとりはかるよう命ずる」と書いている。佐藤は吉田邸の応接間にあった吉田直筆の書「呑舟之魚不游枝流(舟を呑み込むほどの大魚は支流を泳がない)」が好きで、良く口にした。昨今の国会を見れば、まず「呑舟之魚」はいない。揚げ足取りの雑魚ばかりだ。大局を見通せる政治家が少なくなった。
佐藤日記は「中共問題を中心に話する」など、吉田に外交問題で相談していたケースが多い。今首相が外交問題で相談できる政治家がいるだろうか。全く思い浮かばない。首相・麻生太郎は、吉田邸の門前に立つ張り番の政治記者たちと、幼い頃からつきあっていた。しかし、記者の話を聞くと、祖父の悪口ばかりで、「吉田茂が死ねば、日本は平和になる」とまで言う記者がいたようだ。その記者たちが、吉田が死ぬと、名文で哀悼の記事を出している。これを見て、麻生には「新聞記者は信用ならん」というトラウマができたという説がある。「新聞は読まん」というのは祖父譲りの遺伝子かもしれない。
吉田は麻生を可愛がり、麻生の対談によると、「閣僚名簿を書いて、私に渡して、読んでみろと言う。そして、朱の筆で書きかえて、これを内閣書記官長に渡しておけという」というようなことをしたらしい。麻生は、「新聞記者も、お菓子1個でガキに取り入れば、スクープが抜けるんじゃないか、というくらいの知恵はつく」とも述べており、少し漏らしたかも知れない。吉田邸の離れには、新橋の名妓「こりん」(本名は坂本喜代子)が住んでいた。夫人雪子さんをなくした後、死ぬまで身の回りの世話をした人である。2006年2月、99歳でなくなった。吉田政治には可否さまざまな議論があるが、戦争直後の混乱期に遠くを見据えて、日米安保条約で日本の軍事費を削減し、経済的繁栄の基礎を作ったことだけは確かである。今の政治はニワトリが目先の餌だけを突っついているような状態で、日本の将来を見据えた政治などは少ない。わずかに麻生の消費税導入論が中期展望に立っているだけだ。
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