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2009-03-12 00:00
(連載)共同体の内なる敵(2)
辻 正寛
会社役員
本件に限っていえば、「表現の自由」の立場からの批判はいささか的外れであろう。「表現の自由」は市民的権利の不可欠な要素であるが、とはいえ「絶対的」権利ではないというのが良識的判断である。たとえばドイツやオーストリアをはじめ欧州13ヶ国においては、ホロコーストの事実性を否定する言説は刑事罰の対象となっている。歴史的・政治的観点から格別デリケートな主題についてはどの国も神経を尖らせているのだ。今回のウィルダースのケースでは、反イスラム主義を公然と掲げる人物の入国に伴う騒擾が危惧されたわけであるが、その際、騒擾を起こすのはあくまでもウィルダースではなく、イスラム過激派であるというところがポイントである。
9・11事件以降、安全保障の観念はまったく変化した。テロは遍在的脅威となり、外敵からの防衛のみならず、国内に潜伏する不安分子への対応に、どの国も手を焼いている。「テロリズムには譲歩しない」というのが久しく国際社会の常識であったが、これとて遠い異国での掃討作戦か、せいぜいハイジャックや立てこもりを想定した上での原則であった。先進国が、軒並み自国内に潜在的な(しかも手段を選ばない)脅威を抱えてしまった現在において、そんな勇ましいことも言ってはおられないというのが正直なところではないだろうか。だから市民的自由が、「公共の安全」確保の大義名分によってある程度犠牲になるご時勢なのだ。それがいいことであるとは言わない。それが現実なのである。
ただ、ひとつ気になることがある。それは先進国が国内の潜在的脅威を活性化させまいと宥和的政策に傾くことによって、それを逆手に取った風潮、すなわち「政治的正しさ(political correctness)」がすべての判断基準になるという不健全な風潮が蔓延することが懸念される。それは文明社会の死を意味する。文明とは価値の集成である以上、妥協にもそれなりの限界を定めなければならない。EUにしても、たんなるご近所づきあいではなく、ひとつの価値共同体であるところにその存在意義がある。いずれ東アジアにもそのような共同体が成立するかもしれない。そのような価値共同体が「内なる敵」にいかに毅然と対応するか。この問いに答えを出すことが、21世紀の政治の真の務めではないだろうか。(おわり)
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