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2009-01-26 00:00
金正日総書記「健康不安説」の背後にあったもの
大江 志伸
江戸川大学教授・読売新聞論説委員会特約嘱託
北朝鮮建国60周年(2008年9月9日)の記念行事に姿を見せなかったことで火がついた金正日総書記の健康不安説、5か月におよんだあの「狂想曲」はなんだったのだろうか。世界各国とりわけ日本、韓国、一部米国のメディアによる関連報道は、未確認情報の空中戦の様相を呈し、一時的な健康悪化説から再起不能説、果ては死亡説まで飛び交った。密室国家・北朝鮮特有の「狂想曲報道」は、金正日総書記が1月23日に王家瑞・中国共産党対外連絡部長との会談に応じ、健在ぶりを誇示したことにより、終幕を迎えた。膨大な量に達した報道内容の真偽はともかく、今回の騒動の背景に何があったのかについて考えてみたい。
各種報道を総合すると、金正日総書記は2008年8月に脳障害など何らかの健康異変に見舞われ、参席が恒例となっていた9月9日の建国記念行事に出られなかった。この段階までの情報確度は高かったと見てよい。「後講釈」との批判を承知で、私見を述べれば、「その後の病状はそれほど重篤ではない」と私は推測してきた。論拠はいくつかあるが、ここでは一つだけ指摘しておきたい。金正日総書記の動向が伝えられなくなった後も、北朝鮮の核問題政策、対南政策にまったくぶれはなく、「金正日流」が随所ににじみ出ていたことである。一部では、判断不能に陥った総書記に代わり、側近中の側近とされる義弟、張成沢氏が陣頭指揮に立ったとの説も流れたが、北朝鮮の権力構造上、まずありえない。金正日総書記の頭脳は健在だったのである。
なぜ金正日総書記は、長期にわたり外国要人との接触を避け、健康不安説をあおるような対応を続けてきたのか。その謎を解く先例がある。世界の耳目を集めた1986年の金日成死亡説である。死亡説は、南北分断最前線での韓国軍の諜報活動が引き金となった。今回同様、韓国、日本、米国の各政府、メディアからあまたの未確認情報が流れる一方、北朝鮮自身は不気味な静観を続けた。結局、当時、共産主義体制だったモンゴル最高指導者の平壌訪問時に、金日成主席が会談に姿を現し、「死亡説」は一瞬にして霧散した。その間、西側社会では、北朝鮮の後継問題や体制崩壊、南北関係の変動などあらゆる可能性が論議された。
北朝鮮にすれば、金日成主席死亡に際し、周辺国、国際社会がどのような反応を示すか、事前シュミレーションの機会を得たに等しかった。北朝鮮が核兵器開発に拍車をかけるようになったのは、この死亡説以降のことだ。先例にならえば、今回の健康不安説は、またもこう着状態に陥った核問題の6か国協議やオバマ政権発足と密接に連動している可能性が高い。金正日総書記は、自身が仕掛けた健康不安説に対する外部の反応から何を読み取り、どんな手を打とうとしているのか。そこに目を凝らす必要がある。
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