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2008-08-24 00:00
「飽和点」としての北京オリンピック
櫻田淳
東洋学園大学准教授
チャン・イーモウ監督の演出による北京オリンピック開会式は、中国の「威信」を確かに感じさせるものであった。しかし、筆者は、そうした壮大な演出を前にして、白亜紀の巨大恐竜の姿を思い起こした。振り返れば、1964年の東京においても、1988年のソウルにおいても、そして2008年の北京においても、夏季オリンピックは、それぞれ日本、韓国、そして中国の国際的な「地位」を認知させる舞台として使われたけれども、筆者には、膨大な資源を投入して大掛かりなセレモニーを演出し、その「地位」を誇示するという手法は、既に「飽和点」に達したのではないか、との想いを禁じえなかったからである。
客観的には、資源枯渇や環境保護への対応が全人類的課題として語られている折に、此度のような資源を大々的に消費する手法が、今後はどれだけの意義を持つのかは、疑問なしとしない。
『荘子』(繕性第十六)に曰く、「古之所謂得志者、非軒冕之謂也、謂其無以益其楽而已矣。今之所謂得志者、軒冕之謂也。軒冕在身、非性命也、物之儻来寄也」(古の所謂志を得る者は、軒冕の謂いに非ざるなり。其の以て其の楽しみを益す無きを謂うのみ。今の所謂志を得る者は、軒冕の謂いなり。軒冕身に在るは、性命に非ざるなり。物の儻来寄するなり)である。文中、「軒冕」とあるのは、「高位高官の地位」を意味するけれども、この『荘子』の記述に従えば、「志を得る」というのは、ただ単に「高位高官に就く」ということではなく、「これ以上はないという楽しみの境地に達する」ということである。
もし、2016年の東京で夏季オリンピックを開催するのであれば、それは、少なくとも、「其の以て其の楽しみを益す無きを謂うのみ」を方針としなければならないであろう。前回(7月21日付本欄への拙稿「東アジア世界の『共通の資産』としての道家思想」(619号))の寄稿でも指摘した道家の思想の今日的な意義は、そうしたところにある。
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