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2008-08-23 00:00
(連載)公とは「オカミ」のメンタリティでよいか(2)
入山映
サイバー大学客員教授・(財)国際開発センター研究顧問
既得権益に安住している人々にとっては、柔軟な知性や、ましてそれを実現したがる組織等というのは、迷惑以外の何者でもない。現在進行中の「公益法人(これはほかでもないこうした柔軟な組織の典型であるべき組織だ)制度改革」において、優秀な官僚が能力のあらん限りを尽くして、公益法人を従来通りの陳腐な仕事だけをする組織にとどめ置き、あわよくばこれまで通り官庁の外郭団体にしておこう、としているのは、別のところで書いたから繰り返さない。
しかし、今上げるべき声を上げないと、悔いは千載に残ることになる。民間非営利組織と言えば、外国の要人に取り入ったり、要人と握手をしている写真を机に飾る、以外に能のない組織に陥ることは必然だからだ。民主主義とは、「目きき」の存在を前提にする。けだしその存在がないところでは、限りない衆愚政治と、御用学者や茶坊主の集団になることは、歴史が証明しているからだ。「目きき」はいかにして可能か。参加・脱退・設立・解散自由という極めて柔軟な無数の組織が、社会の中にアメーバのように存在することをおいて、他にはない。これを市民社会と呼ぶのも良いし。NGO・NPOと呼ぶのも良い。
全ての独裁者、権力者、官僚主義者は、これを忌み嫌った。その力と、自らに対して及ぼしうる影響を知るからである。ことは、たかが一つのプログラム「中央ユーラシア指導者アカデミー」のことである。しかし、そんなささやかなプログラムさえ生むことの出来ない社会とは、グローバル化した社会から便益のみを享受して、応分の寄与をしない国とは、一体何なんだろうか?考えることと言えば、お身内の、仲間の、利益集団のことばかり。力を持ったものにすり寄り、人よりも一日でも早くその権力機構の要人と面識を得ようと言う、そんな卑しい国に、日本はいつからなったのだろうか?(おわり)
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