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2008-07-25 00:00
(連載)伊藤憲一氏の提起した問題について考える(1)
佐藤守
元航空自衛官
国際関係は急激に変化しつつあるが、そのような中で、さる7月18日付け『産経新聞』「正論」欄に伊藤憲一氏は「米国への『依存心』を払拭せよ」と題する論考を寄稿した。伊藤氏は、ブッシュ大統領が北朝鮮をテロ支援国家指定から解除する旨発表したことについて、「日本国内には対米不信感が盛り上がった。しかし、米国がその意思決定で常に対日配慮を最優先するとの保証はもともとない話であり、ここで対米不信感を募らせるのは、日本人の甘えであり、リアリズムの欠如である。ここで、本当に気づくべきことは、自分自身の立ち姿であろう。相手が誰であれ、アメとムチ、防御と攻撃の両方が揃っていなくては、外交交渉も、ましてや軍事力の行使も成立しない。それなのに日本人は、憲法第9条の名において、ムチや攻撃手段を放棄し、その役割を米国に押し付けて、『日本は平和立国だ』と、はしゃいできたのではなったのか」と論じており、私は全く同感である。
伊藤氏は、さらに「少なくとも米国への無意識の依存心を前提にした日本の『平和主義』は、本物の平和主義かと、問い直したいのである。そのような『平和国家』日本には、米国だけでなく、世界全体が辟易としている。そのことに日本人はそろそろ気づくべきである」と書いたが、この「辟易」という言葉に、実は私は「ぎょっ」としたのである。それは、今まで誰にも言わなかったことではあるけれども、三沢でも、沖縄でも、航空自衛隊の現役時代に私が付き合った米軍関係者の多くは、「辟易し始めていた」と実感していたからである。これは、日本にとってじつに憂慮すべきことである。
なぜなら、それは言い換えれば、米国や西欧諸国などの「友人たち」は辟易する程度で済むが、ロシアはじめ、近隣アジア諸国などの「反日分子」にとっては、辟易するどころか、「これ幸い」とばかりに日本を「侮蔑」することになるからである。1920年代にシナ大陸は混乱を極めていたが、やがて「侮日工作」が蔓延して、日本はその泥沼に引きずり込まれていった。その経験がある日本としては、「辟易」が「侮日」に繋がらないように様々な「工作」をしなければならない筈だが、ムチを使う意思がない以上、それは困難というものであろう。(つづく)
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