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2008-07-18 00:00
EU国民投票に見る脱国家官僚制度への不信表明
入山映
サイバー大学客員教授・(財)国際開発センター研究顧問
考えてみれば、EU(欧州連合)はそれまでの常識を全て逸脱し、打ち破るところから始まった、と言ってよいだろう。1993年に国家連合としてのEUが発足したとき、欧州石炭鉄鋼共同体からEC(欧州共同体)にいたる長い歩み、特に独・仏両国の不戦に向けての強い意志を知る人の間でさえ、主権制限の国家連合等というものが機能するのだろうか、という疑念が圧倒的に支配していた。それが1999年の通貨統合である。国境を越えるたびに通貨を交換していたエキゾチズムがなくなった、と嘆くツーリストはともかくとして、そんなことが出来る訳がない、という議論が百出していた。それがいまや国際通貨としてドルの地位を脅かす、とまでは云わなくとも、交換レートが示すように、押しも押されもしないハード・カレンシーとしての地位を獲得している。
しかし、これほどの理想に裏打ちされ、かつ国際的な信任を得ながら、この巨大組織はついに官僚制の桎梏に絡めとられたように見受けられる。「ブラッセルのあいつら」は、同じく巨大で非能率な国連官僚が、与えられた予算と権限に満足しているように見えるのとは異なり、直接に傘下の人々に統制支配の手を伸ばそうと試みる。おそらく、2005年にEU「憲法」がフランスとオランダの国民投票で批准されなかった背後には、「ブラッセルのあいつら」に対する反感も大きく与って力があった、というのが当時の事情通の共通認識だった。その苦い経験から、今度のリスボン条約は「憲法」という名称を避けるほか、国家自治という伝統感情に対する配慮をこれまでになく行った内容だった。それが再びアイルランドの国民投票で僅差とはいえ否決されたのだ。
だからといってEUの理念そのものに対する揺らぎや不信は全くと言ってよいほど見られない。若干性急な結論に走ることを許されるならば、脱国家の巨大官僚制に対する不信感の再度の表明である、というのが真相に近いのではないか。その健全な平衡感覚が、これほど官僚制の欠点と弊害が露呈されている日本でほとんど発揮されていない、というのも驚きではある。「ブラッセルのあいつら」は度重なる不信任にも関らず、ほとんどその行動様式を変えていないとも聞く。してみれば、たとえ不信任の意向を表明されても、日本官僚制は微動だにしないのだろうか。おそらくEUの官僚制は揺らぐまい。国連のそれと同じことだ。さて、日本国民は、そして政治家は、完成され、それゆえに堕落がとめどもなくなっている制度を改革することが出来るだろうか。
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