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2008-06-04 00:00
(連載)対ミャンマー国際人道支援の課題(2)
首藤もと子
筑波大学教授
その新憲法案には、政治構造の根幹においてスハルト体制を意識したと思われる点がある。実際、1950年代のビルマとインドネシアには、とくに議会制が挫折して軍が権力の中核となる過程で、共通点がある。しかし、次の4点で、今日のミャンマー軍政はスハルト体制とは決定的に異なる。
第1に、独立後のインドネシアには金融、流通サービス部門等に従事する国内資本(多くは華人系企業家で、彼らの一部はのちに権力への庇護を求めて政商化した)があったが、英領ビルマ時代の企業家は英国人かインド人であり、彼らは戦争中にビルマを去ったため、独立後のビルマ国内に資本家層は不在であった。多くの民族がそれぞれ異なる地域に居住し、民族間の対立で国家統合が危機に陥った1950年代に、共通の国家的組織は国軍のほかになく、1962年に軍がクーデタで政権を掌握した。その後、軍は「ビルマ式社会主義」を標榜して、1980年代末まで国際社会に堅く門戸を閉ざしていたが、1990年代以降は外国資本が軍政に接近して、ミャンマーへの投資が増えた。しかし、軍には資本主義経済を運営する意思も経験もなく、同国の市場制度は失敗し、その国家財政も国防費が突出したまま破綻状態にある。
第2に、スハルト体制では経済テクノクラートが開発政策の策定と実施を担っていたが、軍政では経済テクノクラートの政策参加がない。テクノクラートが政策過程に関与せず、豊富な資源がもたらす富は外国資本と軍上層部のみで配分され、大多数の国民の生活水準は、40年以上の時間が止まったままのように見える。東アジアの「開発独裁」と言われた権威主義体制は、行政権の肥大化が特徴の1つであったが、ミャンマーでは行政権の肥大化ではなく、そもそも行政が国内で制度化されていない。
第3に、スハルト体制は権威主義体制ではあったが、開発政策のなかでも教育の普及には一定の成果を上げた。ミャンマーの軍政は教育の普及や社会的インフラの整備を、40年以上にわたり制度的に拒絶している。それは教育に関心がないためというより、むしろ国民が教育によって啓蒙され、社会運動や反政府活動が活発になるのを疎ましく思うからであろう。ミャンマーの留学生と接していると、彼らは勤勉で潜在的に高い能力をもっていると気づかされる。彼らの能力を開花させる機会が乏しいのは残念なことである。それはまた、ミャンマーの将来の発展にとって、多大な人的資源の損失である。
第4に、スハルト体制期の1970年代以降は、制約が厳しいなかでも、次第に法律扶助団体や環境活動団体などの市民活動が形成され、ネットワークを構築していった。それは主に政府の開発政策によって奪われた土地の権利や環境破壊に対する抗議の運動であった。ミャンマーには、このような市民社会が成立し、活動する空間が乏しい。確かに、地方で活動する国際的なNGO団体もあるが、彼らの行動への制約は大きい。
端的に言えば、軍政は東アジアの「開発独裁」の類型とは異質であり、いわば開発恐怖症型の独裁である。軍政はその体制維持を最優先して、5月29日に「新憲法」成立を発表した。それはスハルト体制の再現を想定しているのかもしれないが、上に見たように、ミャンマーはスハルト体制期のインドネシアとは状況が異なる。権力には責任が伴うという命題のもとに、軍政との対話を制度化しつつ、ミャンマーへの人道支援と復興支援を効果的に遂行していけるかどうか、これから国際社会、とりわけASEANの外交的力量が問われることになろう。(おわり)
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