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2008-03-21 00:00
内憂外患の中スタートした胡錦濤新体制
大江志伸
読売新聞論説委員
3月5日から2週間の会期で開かれていた中国全国人民代表大会(全人代)は、胡錦濤国家主席と温家宝首相の再任と、習近平、李克強の両政治局常務委員の国家副主席、筆頭副首相就任などを決め、閉幕した。これにより、「胡―温体制」は後半5年のスタートを切った。まさに内憂外患の船出である。世界に衝撃を与えたチベット暴動は、胡錦濤国家主席が全人代で「チベットの安全は全国の安全にかかわる」と明言した8日後の3月14日に起きた。暴動はチベット自治区の区都ラサから自治区各都市、そして四川、甘粛、青海の近隣各省へと飛び火し、北京でもチベット系学生らによる抗議行動が表面化した。まさにチベットの安全が全国の安全にかかわる事態にまで発展したのである。
中国政府が、容赦のない武力鎮圧に踏み切ったのは、当然の帰結であろう。「全国の安全にかかわる」であろうチベット人の暴動を放置すれば、同じく自治権拡大、分離・独立要求のくすぶる新疆ウイグル自治区などにも飛び火しかねない。そうした危機意識に立つ中国指導部にとって、武力鎮圧以外の選択肢以外なかったのは明らかだ。今回のチベット暴動は、胡錦濤国家主席の政治経歴にも再照明を当てることになった。チベット自治区での大規模暴動発生は、1989年3月以来のことである。当時、自治区トップの党委員会書記のポストにあった胡錦濤氏は、ラサに戒厳令を敷き、反政府行動を武力で鎮圧した。この「功績」が最高実力者、とう小平氏の目にとまり、胡錦濤氏は中央政界への進出、江沢民氏の次の最高指導者への道を歩むことになった。
1989年の天安門事件はチベット暴動の直後に起きた。天安門事件を武力鎮圧したとう小平氏が、胡錦濤氏を江沢民氏に続く指導者として抜てきした背景には、チベットで武力行使に踏み切った「果断さ」を高く評価したからに他ならない。鎮圧の対象は、チベット族と学生や知識人を中心とする漢族民主勢力という違いはあっても、自国民に対する武力行使を「果断」に決行したという点において、とう小平、胡錦濤の両氏は歴史に対し同様の責任を負った。従って、胡錦濤政権下で、天安門事件の見直しはあろうはずがない。とう小平氏の深謀遠慮は、中国を今なお束縛しているのである。
そして、中国共産党政権を支える暴力装置は、なお堅固である。事態の沈静化は時間の問題だろう。中国政府は、国際社会の求めるダライ・ラマとの対話には見向きもせず、暴動発生はダライ・ラマ勢力の違法な策謀に起因するとして逆に反撃の姿勢を強め、中央突破の構えだ。しかし、北京五輪を8月に控え、今回の流血の事態の真相が明るみに出るにつれ、国際社会の批判がさらに高まるのは必定である。欧米諸国の一部では、北京五輪のボイコット論も出始めている。中国外交にとっては大きな痛手だ。胡錦濤政権は、高まる「外患」をどう収拾するのか。外交戦は始まったばかりだ。
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