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2007-10-09 00:00
それぞれの「東アジア」
舛島貞
大学准教授
先日、ある会合で「東アジア」の定義が話題になった。ある識者が「昨今では東アジアといえば、北東アジアと東南アジアをあわせた領域である」と、「東アジア共同体」にいう「東アジア」の範囲をあげれば、ある研究者は「そのような定義は未だ馴染んではいない。やはり日中韓の三国の形成する領域を東アジアと考える人が日本では大半ではないか」と話した。するとその識者が「それでもモンゴルは入らないのですね」と釘をさした。これは、東アジアという呼称が地理的な呼称なのか、国家の集合体としての地域呼称なのかということにもかかわる話である。地理的呼称だと断言すれば、その地域に属する国に対する東アジア共同体への参加圧力が強まるのとともに、この共同体がインドやオセアニアなどの周辺領域を含みこむことへの矛盾が生じる。それに対して、国家の集合体だと述べれば、周辺を含みこむ弾力が生まれるものの、その集合体に入らない国や地域の存在は無視されがちになる。
また、別の会合では、韓国でのアジア観が話題になった。1990年代後半のアジア通貨危機に直面してはじめて自らがアジアとの関係性の中に位置づけられていることを強く意識し、そこにおいて「アジア」の発見があったという。無論、首脳ベースでは金大中大統領のアセアン+3でのイニシアティブがあったが、社会的にはこのようなものであったのかもしれない。その韓国の(東)アジア観と日本のそれを比べてみると、大きく異なっていることがわかった。重要なのは、中国への好感度が五割を超える韓国と真逆の日本、また台湾への好感度がゆうに五割を超える日本と真逆の韓国である。台湾問題が、東アジアにおける根源的問題のひとつであることを考えれば、この相違が将来的に何をもたらすか、考えねばならないだろう。
東アジアと一言で言っても、これまで言われてきたとおり定義は多元的だし、また多様なイメージの下に語られてきている。「共同体」が同床異夢であるとしても、そこでの「夢」の差異の幅が広がりすぎることもまた、共同体形成のためには好ましくないのではないか。日韓のみならず、多様な二国間、多国間関係において、「自由と繁栄」などとともに、より踏み込んだアジア・イメージを練り鍛えていく過程が求められているのだろう。
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