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2022-03-19 00:00
(連載2)日本の危機対応への意識の低さ
宇田川 敬介
作家・ジャーナリスト
つまり、戦争をしていない、また戦争に関して議論をしていない日本では、戦争が具体的に何を指すのかということに対してアップデートができていない。極端な話、いまだにグラマンの機銃掃射とB-29の爆撃で人が死ぬと思っているのではないかとすら思う。ちなみに、B-29も当時グラマンといって恐れられたF6Fヘルキャットも、すでに現役を引退しており、博物館以外で見ることはほとんどない(式典か何かで飛ぶことはあるようだ)。そう考えると、日本の場合、サイバー攻撃への向き合い方からして「平和ボケ」なのかもしれない。あえてこのようなことを書いたのは、日本の考え方が博物館に飾られるレベル、つまり古すぎて現代には全く通用しないからである。
現在のように、会社の会計も、顧客管理も、また、生産管理からロボットの運用も、それどころか発注や会議内容まで、ほとんどすべてにコンピューターが使われている。もちろん日本の戦後どころか私が子供のころであった50年前は、まだそんなことはなく、人間がアナログで頑張っていた時代である。しかし、時代は変わった。そのコンピューターが止まれば、全ての社会活動が止まってしまう。それならば、コンピューターをしっかりと守ればよいが、ここでなぜかその主体が会社単位となりがちだ。国を挙げて、または企業グループや取引先を上げて守り抜くというような「集団で大きな敵と戦う」という取り組みに消極的なのである。
なぜ日本人は「守る」ということに消極的なのであろうか。それは、「想定外」に対して責任を負わないという謎の文化があるからと見ている。例えば、自衛隊の「必要最小限度の実力」という概念も、ものごとが想定内にすべて収まり責任もその範疇であるという暗黙の了解がなければ、そもそも成り立たないのだが、これは日本において金科玉条である。実際のセキュリティにおいては、想定外が発生しても柔軟に対応して被害を最小限に食い止めるという発想が重要であり、それができないのであれば、危機管理として全く役に立たないにもかかわらずである。
これが日本人の危機に関する意識なのである。今までは、逆に、このような認識で何とか日本は国家を維持できていた。しかし、今後そのような認識で対応できるのか。そのことをしっかりと考えなければならないのである。(おわり)
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