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2022-01-27 00:00
(連載2)「必要最小限度」のおかしさ
荒木 和博
拓殖大学海外事情研究所教授
ちょうど北朝鮮はその典型で、核戦力の開発になけなしの金を湯水の如く掛け、その弾頭を運ぶために必要なミサイルを頻繁に射つということを繰り返しています。そのおかげで、一般の部隊は、もう食うものもないという状態です。日本の自衛隊は、北朝鮮軍と比べれば困窮はしていませんが、やはり防衛力の整備という観点から言えば、非常に歪な安全保障の体系になっていると思います。
なぜ自衛隊の運用や装備がこのような不合理な体系になっているのかというと、やはりその根本原因というのは、戦後体制にあるのだと思います。GHQは当初日本の完全な軍備解除、非武装政策を真剣に実現できると考えていましたし、それは日本国憲法の条文にも表れています。工業を振興してきた戦前の産業政策を覆して農業国家に仕立て上げようと本当にしていました。それによって、日本を静かにさせておくことができる、そしてそれがアメリカのためになると考えたのです。しかし、日本から日本軍を消滅させたところで日本列島の地政学上の脅威が、新たに生じ、あるいは依然として残っている以上、アメリカ自らが守ってやらないといけない。アメリカが守らないとなれば当然日本はまた自由に再軍備をするだろうということで、占領が終わっても米軍が駐留して、日本を制御しつつ守るという形に行き着き、その成れの果てが今は日米同盟です。こうやって形成されてきた戦後の日本の安全保障体制は、簡単に割り切れるものではないのですが、このような歪な体系になっているのにはこういう歴史的経緯があることは間違いのないことです。私達日本人はこの問題についてどう対応してきたのかというと、結局のところ、ごまかしごまかしで、なんとかしてきてしまったといえます。その中のテクニックとして生まれたのが、「必要最小限度」の防衛力という言葉がではないでしょうか。しかしながら、「必要最小限度」という言葉に拘っている、囚われていると、この先の日本を守ることはできないということは否定しがたいことです。
戦争というのはおそらく人間の心の中に憎しみとか妬みとかそういうものが存在している限りは絶対になくならないだろうと思います。もちろん、争いの形は変わっていくかもしれません。中国では超限戦という言葉が生まれ、戦争も宣戦布告をして行う時代ではなくなりました。戦時と平時の区別すらなくなっていくのかもしれません。しかし、我々はいずれにせよ、そういうどんどん進歩していく戦争の脅威と向き合いながら国際社会を生き抜いていく他ないのです。そして、尖閣諸島問題や北方領土問題など、さまざまな問題がかつてない強度で日本の安全保障体制に挑戦してきています。ロシアは、この21世紀にもなって、NATOと一戦交える気勢でウクライナ国境に部隊を集結させ、中国は台湾からアメリカの影響力を排除しようと躍起になっています。この高強度の軍事的脅威が日本に向かうことをイメージしてください。防衛力を測る際に「必要最小限度」という言葉を用いるおかしさが分かると思います。
「必要最小限度」という考え方がおかしいからといって、急に白紙に戻して日本の安全保障戦略、防衛力整備をやり直すということはなかなか難しいのですが、少なくとも今後の防衛の方向は自分の国は自分で守るという形にしていかなければいけないのではないだろうかということです。(おわり)
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