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2021-10-30 00:00
戦後間もなくの頃のこと
中山 太郎
非営利団体非常勤職員
第二次大戦後からだいぶ月日が流れた。80歳の筆者は昨夜の晩飯のメニューは思いだせなくとも、ふと幼少期に、母親におぶさり、米軍の爆撃を逃げた思い出、遠くで市内が赤く染まっていた光景などが鮮明に思い出されたりする。今多くの若者の意見では、ミャンマーの軍政府の評判は極めて悪い。筆者の記憶をたどると、ミャンマーは、戦後の日本の食糧難を助けてくれたのだ。日本がどこの国とも国交のない時代に、米を送ってくれ、それでどれだけ日本人が飢餓から救われたかしれないのだ。当時大人たちが感謝の気持ちを込めて話していたのを覚えている。同国は日本が戦場としたわけだが、独立を助けてくれた国として日本を立ててくれたのだ。その後の各国との外交関係樹立の際にも、確かミャンマーが一番早かった。
賠償問題など面倒なことは持ち出さず、きわめて友好的であったと記録にある。それ故、現在の欧米諸国の極めて厳しいミャンマー制裁は分かるにしても、同国の人々に何とか人道的な支援が届くよう日本としては考えることは必要かもしれない。ジャングルルールの国際社会でもこうした恩返しは必要だ。
この欄で、戦争末期における中国東北部でのロシア軍の蛮行で多くの日本人がひどい目にあったことが出ていたが、幼い時の筆者の周辺には、満州は国の生命線などと大言壮語していた男どもは、だれもいなくなっていたのだ。残るは女性のほかは年寄りや子供の男だけだったのだ。命からがら帰国した者たちは、こういう時にこそいて欲しかったのにと嘆きの言葉をよく聞いた。筆者の母親の知り合いのある女性は、20歳であったが、中国語がよくできたのでみんなの代表に担ぎ出され、中国軍の司令官、後に毛沢東に反旗を翻し、失脚した林彪将軍と掛け合い、いくばくかの支援を得たそうだ。その時子供心に、こうした守りの空白をつくらない先の見通しの大事さを思い知ったのだった。その場のいい格好の言動より、今の言動や行為が将来どんな状況をもたらすかの想像力の大事さである。今、左や右の論客のある人たちは、普遍的正義や大上段の正論などを振りかざし意気盛んである。しかし、満州の場面でのように結果には責任をを持たない気配がおおありに筆者には思える。
今上野は、パンダの双子で大人気だが、戦後まもなく、インドのネルー首相が、日本へ象を送ってくれた時の我々の熱狂はその何倍何十倍のものがあった。インドは、ご存じの通り、パキスタンとはカシミール問題などで、中国とは国境問題などで長い紛争を続けている。そして、池田内閣時代に日本へ対中戦争でのいくばくかの支援を求めて来た。外交記録では日本はきっぱりと断っている。勿論、日本の防衛力が一人前に独立してもいないのに他国への支援などとてもじゃない話だと言うことになるが、われわれが尖閣占領などの危機に際し他国に支援を求めることも大ありなのだ。我々は未確定で、きわめて展望の難しい将来の図を思い描くとき、過去の歴史を少し反芻してみる必要もあるかもしれない。
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