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2007-07-12 00:00
「日中」の歴史眼があってこそ分かる石見銀山の世界遺産登録
大江志伸
読売新聞論説委員
島根県大田市の石見銀山遺跡が日本で14番目の世界遺産に登録された。ただし、相当の苦戦だったという。「精錬には水銀を使わない『灰吹法』を用い、自然を壊さない世界に類を見ない鉱山だった」「東西文明交流に大きな影響を与えた」などを登録の根拠として強調したという。だが、審査に当たったユネスコの諮問機関「国際記念物遺跡会議」(イコモス)の評価は厳しく、4段階の下から2番目に当たる登録の「延期勧告」だった。
その後の懸命のロビー活動で逆転登録となったが、「自然配慮」にせよ「東西交流」にせよ、審査メンバーにはやはり分かりにくかったのではないのか。なんと言っても、石見銀山の本当の「すごさ」を理解するカギは、当時の日中関係にあるからだ。
石見銀山は16世紀の前半に発見された。講談社刊『中国の歴史―海と帝国』(上田信著)などによれば、当時、大陸を支配していた明朝は交易や財政に必要な銀をまかなえない窮状に陥っていた。そこに流入した石見の銀は、明朝の窮状を救っただけでなく、大航海時代を迎えて勃興期にあった東西交易の失速も防いだ、というのが定説である。最盛期には世界の産銀量の3分の1を占めた日本の銀が17世紀に枯渇し供給量が減ると、大陸の経済にも変調が出始め、明朝は崩壊へと向かっていった。
現地の環境を守りながら、中華帝国の命運も左右した石見の銀、という視点に立てば、「台頭著しい中国と世界2位の経済力を誇る日本」という、現在の日中関係に通じる構図も浮かんでくる。歴史の皮肉だろうか。当時の政治、外交関係に目を向けると、ここでも現代との共通項が目につく。中国沿岸を荒らし回った倭寇の続発、「明征服」を旗印にした秀吉の朝鮮出兵などが起き、両国の外交関係は問題続きだった。
朝貢に応じないどころか、中華帝国を頂点とするユーラシア秩序を攪乱する日本に対し、明朝とそれに続く清朝は公式には日本との直接交易を認めなかった。しかし、両国は密貿易を含む民間ルートの活用などを通じ、相応の経済関係を維持している。今風に表現すれば「政経分離」方式である。中世以後のユーラシア大陸との関係をたどると、日本は中華帝国の威光に従わない「異端」でありつづけたが、「孤児」となったことはない。石見銀山の遺跡は、そうした日中関係の足跡を示す格好の教材でもある。
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