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2020-12-12 00:00
日本の対中仲介論について
中山 太郎
非営利団体非常勤職員
年を取ると頻りに昔のことを思い出す。文芸春秋11月号に作家で数学者の藤原正彦氏が、陸軍と海軍の暗号について書いておられる。前者はそれなりに秘密を保持出来たが、後者は米側に見事に抜かれ、太平洋への兵員輸送船がボカボカ沈められた旨、細かい数字をあげて述べている。筆者の幼児期の最大の話題は東京裁判の新聞記事だった。勿論、子供なので理解が足りないし、その頃の紙面も枚数が限られており、内容も全容を伝えるには短かすぎてもいた。子供心に日本は陸、海同じように負けたのに、何故、A級戦犯で絞首刑になったのは陸軍の人だけで、海軍はいないのか不思議だった。周囲の大人たちに質問をぶつけてもはかばかしい答えは得られなかった。藤原氏の文藝春秋の随筆欄の前任の作家の阿川弘之氏は海軍出身で、「山本五十六」などの作品は夢中になって読んだものだ。しかし、今冷静に考えると少し身びいきすぎるし、少し理想化しているところもある。静岡県の港町にいて、戦時中多くの若者が戦地へ渡海するのを見送ったものとしては、彼らの無念を考えいたたまれない気持ちもする。
1951年にサンフランシスコ対日講和条約、そして同時に日米安全保障条約が調印された。日本国内のソ連などの東側陣営の応援団の学者などは、厳しく批判した。吉田茂総理の時だ。そして1960年岸信介総理の時代に日米の地位をより平等に近づけることを狙った日米新安全保障条約が調印された。同じように反対派は猛反対したし、マスコミなどの支援もあり安保阻止の一般大衆の運動は盛り上がった。そうした国会デモの混乱で東大の女子学生が命を落とした。筆者は、ノンポリの学生であったが、「持つもの」と「持たざる者」の分類で行くと女子学生の死は痛ましいが、東大教授の令嬢で明らかに前者に属し、守りの若い警察官たちはどちらかと言えば後者に分類されると思ったりした。
そして1989年ベルリンの壁撤去が始まり米ソ両陣営の冷戦は、一挙に雪解けに向かった。
しかし、それから30年たった今でも、当時の頃のイデオロギーを保持する層が日本にはいて、その後の国際情勢の激変には目を向けず、反米自立、中立を唱える人たちが残っている。知り合いの米人の近現代史学者は、第1次大戦後のヘミングウエーなどのロストジェネレーションに似ていると笑う。
今、米中対立の中で、日本は西側の対中戦略を引っ張ってゆくべきだとの声が大きい。これで思い起こすのは、9.11の後、復讐心に燃え立った米国内の空気を抑えきれず、ブッシュ米大統領がアフガニスタン、イラクへの闇雲な攻撃に出たとき、時のフランスのシラク大統領は、必死に止め、少し冷却期間を置くべきだ。特にイラクを殲滅し無政府状態にすることの危うさを説いたが、米政府も議会も聞かなかった。そして、フランスへ猛反発し、子供、大人も愛好する「フレンチ・フライ」の呼び名を、別な呼び方に変えたりした。米マスコミも、反フランスの論調一色だった。日本は、そうした事態に耐えることのできる国内世論なのかよく考えて行動すべきで、2番手でもよいので、西側陣営のためになること、自由主義的秩序の形成、人々が真に幸福への道とれるように地道にコツコツと進めるべきかもしれない。
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