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2020-12-09 00:00
(連載1)イスラム教とフランス社会の融和のために
宇田川 敬介
作家・ジャーナリスト
フランス社会とイスラム教世界との対立は「当分の間埋まらないのではないか」という気がしてならない。フランスという国がそのプライドの高さと自分たち以外の価値観を受け入れなければ、基本的にはそれらが埋まることはないだろう。2016年のシャルルエブドにおける銃乱射事件では、イスラム教の「神への冒涜」と「言論の自由」とが二律背反の関係なのか、そうではないのかという解釈が西洋社会の大きな摩擦につながった。それが解決していなかったことが明白になったのが、2020年の10月に起きた「フランスの学校教員殺害事件」である。その殺害の発端は、シャルルエブド事件と同様に「神の冒涜と言論の自由」を教育の場でテーマに扱っただけのことであった。
「禁忌」という言葉がある。どんなに親しかろうと、その集団の中で人気者であっても禁忌に触れたものは、一定の「罰」を受けることになる。「罰当たり」という単語があるが、まさにその「罰当たり」の制裁を人間がしてしまうのが「イスラムの過激派」なのではないか。私の思うところ、多民族社会における「異文化交流の不調」が蔓延していたのであろう。つまり、イスラムの人々が「イスラム教に関して無知な人間に宗教や戒律を教える」というごく普通のことが行われずにすぐに制裁になってしまう。
そういう極端なことが起きているということは、例えば、宗教活動の基本である「布教」という行為ができていないということであり、フランス社会で市民同士の「宗教戦争」が起きやすい環境ができていたということだ。つまり、このような事件が起きるのは、「フランスの人々は、イスラム教徒にとって敵である」という認識があり、「布教の対象として、または、宗教を説明する対象としてフランス人を見ていない」ということに他ならないのである。
そのことをうまく説明したのが、マハティール前首相の言葉であろう。「フランス人は、その歴史の中で大勢の人を殺してきた。多くはイスラム教徒だった。こうした過去の大量虐殺ゆえに、イスラム教徒には怒り、大勢のフランス人を殺す権利がある」「(それでも)一般的に、イスラム教徒は『目には目を』の報復律を実践してこなかったし、今もしていない。フランス人もするべきではない」「フランス人は、他者の気持ちを尊重することを国民に教えるべきだ。フランス人は1人の怒れる人物の行為をイスラム教徒全員とイスラム教の責任にしている。ゆえにイスラム教徒にはフランス人を罰する権利がある」(マハティール氏)(つづく)
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