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2020-10-17 00:00
(連載2)日本学術会議問題の本質は‘中国的なるもの’
倉西 雅子
政治学者
仮に日本学術会議が科学の平和利用をポリシーとして貫くならば、少なくとも軍民が一体化している中国とだけは協力関係を築くべきではなかったと言えましょう。中国の軍事技術が先進国から貪欲に技術を吸収しつつ飛躍的に向上し、今や最先端のハイテク兵器で日本国の安全を脅かしている以上、日本国政府が日本学術会議の方針に対して転換を求めるのも、無理筋ではありません。
第2の側面は、人事権の在り方です。例えば、中国では、民主的に公職が選ばれるはずもなく、研究方針もトップの一声で決定され、反対する研究者は容赦なく粛清されます。この側面は、今般の日本国政府による新会員の任命拒絶のみならず、人治とも言うべき方法で会員が選定されている日本学術会議に対する批判点でもあります。同会議の示すポリシーを全科学者の”総意”とするにも説得力がかけるのは、この人事システムが民主的でないことによります。
そして第3の側面は、学問の自由の如何です。中国にあって学問の自由が保障されているのかと申しますと、それは幻想です。共産主義国では、ソ連邦でも顕著に観察されたように、科学技術の研究は国家に従属しています。日本国政府も、近年、デジタル社会化に貢献する分野にのみ予算を重点的に配分したため、他の学問領域を冷遇する結果となり、間接的ではあれ、学問の自由を損ねてしまいました。その一方で、日本国政府よりも同会議の方が、むしろ他の研究者から学問の自由を奪っていると指摘されるのも、その組織的な体質が、中国共産党と同様に統制志向が強いからなのでしょう。
このように問題を3つの側面に分けてみますと、少なくとも、第2と第3の側面に関しては、日本国政府も日本学術会議も、自らの内に巣食う‘中国的なるもの’を、それとは気付かぬふりをしながら、お互いに合わせ鏡のように批判し合っているように見えます。そして、両者とも、自らの主張に正当性があることを示すために、自己を自由や民主主義に立脚した立場に置いて相手方を批判しているのです。この結果、双方に自己矛盾が生じ、収拾のつかない状況に陥っているのです。今般の一件は、今日の日本国が抱える問題を浮き彫りにした点において意義がありました。自衛隊の防衛力強化を目的とした軍事技術の研究の問題、並びに、中国への軍事協力の防止問題については、正面から議論する必要がありましょう。そして、現在、日本国のあらゆる組織に必要なことは、政治の世界であれ、学問の世界であれ、‘中国的なるもの’、即ち、共産主義、あるいは、全体主義的な悪弊や束縛を取り除くことであることだけは確かなのではないかと思うのです。(おわり)
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