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2020-09-04 00:00
(連載2)コロナの中で考えた「人間」と「倫理」の再認識
加藤 隆則
汕頭大学長江新聞與伝播学院教授
一定の関係や間柄において人を把握すれば、人の行為も孤立したものではなく、世間の中における行為となる。人を問うことはすなわち関係、共同体を問うことにほかならない。近代以降、西洋から輸入された個人主義とは明らかに異なる人の存在がある。道徳を公共の場、倫理を個人の領域と分ける考え方もあるが、関係の中で人を把握する立場からすれば、その区別に意味はない。話が脇道に入ったようにみえるがそうではない。コロナ感染の中で、欠けているのが仲間、人間、世間という背景を持った人に対する把握だと思えるからだ。個人の自由や権利を訴えるが、社会から完全に孤立、独立した単独の個人は存在しない。自分は感染しても構わないという独りよがりや、人への感染に配慮を欠いた無責任は、関係の上に成り立つ人への認識がないことから生じる。「生活が成り立たない」という不安や不満は、別のカテゴリーに属する問題で、健康や生命に関する感染防止策と同列に語るべきではない。
自己の利益を優先させ、自粛要請を無視して深夜まで営業を続ける居酒屋があり、そこに群がる者たちがいる。自分たちは「関係」とは縁がないと言わんばかりだ。そうした心なき行為が、どれだけの関係を損なっているかを考えるべきである。前回も書いたが、日本に来たくても来られない世界の若者たちがいる。夢にみた日本での留学や生活、あるいは旅行がストップしている。もちろん海外に羽ばたこうとする日本の若者たちもいる。関係を求める者が道を断たれ、関係に背を向ける者が大騒ぎする社会では、若者たちに夢を語る場を与えることができない。
先の都知事選では、候補者が大量の支持者を動員し、駅前で大演説会を開いていた。「コロナ対策」という言葉が何度も飛び出したが、あきれてものが言えなかった。政治家は目先の利益しか関心がなく、理念を語る言葉を持っていない。なぜコロナ対策が必要なのか。首相は、妻の非常識な行為を弁解するので精一杯でなにも期待できない。東京五輪の延期はやむを得ないにしても、国も東京都も、来年必ず実施するという決意や意欲がまったく伝わってこない。ただただ、弥縫策ばかりが議論され、無策のまま時間が流れ、日々、感染者が量産されているのを傍観している。
書店には、増えた読者の在宅時間を奪い合うように、コロナに関する浮ついた議論をする本が目立つ。地に足がついていない、机の上で頭の中で描いた文章ばかりが目立つ。安易に政治的なテーマに焦点を当てて、故意か無自覚か、問題の本質から目をそらさせているような内容も少なくない。中には「コロナ後」とタイトルをつけているものもあるが、まさにコロナ渦のただ中にあって、どのような現状認識から生まれてくるのか不可解だ。だからこそ、「関係」の中にある人間、なにゆえ「仲間」という言葉が生まれたかをもう一度、考え直す必要がある。新学期を前に、日本を一時離れる時間が迫っているからこそ、余計にその思いが強い。(おわり)
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