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2020-08-16 00:00
靖国参拝から政治家の器について考える
中山 太郎
非営利団体非常勤職員
16日付邦字紙には、「小泉環境相ら4閣僚が15日靖国参拝を行った」、「終戦記念日に現職閣僚参拝は2016年以来4年ぶり」、「4閣僚は2012年12月の第二次安倍内閣発足後で最多」と出ている。思い起こせば、小泉環境相の親父さんは、総理就任後それまでの慣例を破り、毎年靖国へ参拝した。その頃の中国は、鄧小平の開放改革路線が軌道に乗り出し、経済も調子が上向きであった。しかし、今ほど自信たっぷりで傲慢ではなかった。小泉氏は、最初の北京訪問で江沢民主席の大歓迎を受け、彼ほど日中友好に熱心な日本の総理は初めてだと絶賛された。勿論、中国側は例年どうりに、靖国参拝は総理の期間中はもうやらないと解釈していたのだ。その後、中国版のダボス会議である、第1回のボアオ国際会議が海南島で開かれ、主催の朱鎔基総理は、今のこの議場で一番金持ち国は小泉さんだと持ち上げた。前年9月の米での多角テロを取り上げ、我々は米にいなくてよかったなどと述べたりした。経済担当の総理として朱はWTO加盟をめぐり、米から大分いじめられていたので、その口調にはいい気味だとのニュアンスもあった。
筆者は子供時代に静岡県の港におり、そこから戦場へ行く兵士たちが、我が家にホームステイしたり、一時立ち寄りしたりした。その時にはよく、当時貴重なあんこの入ったお饅頭を分けてくれた。故郷の留守宅にいる息子や弟たちを思い出すのか、私の姿に涙する人もいた。今でも、饅頭に向かうときは彼らの姿が思い浮かび、心粛然とする。そして、死を意識して、皆、靖国で会おうと言いあっていた。筆者は成人してから、東京住まいとなり、時間が許せば靖国はよく参拝した。祖国に命をささげた英霊に心からの感謝をこめて祈った。その後靖国神社は、某宮司が前任者の急死で転がり込んだその職に浮かれたのか、前任者が世界の流れを感じ取り、慎重にA級戦犯の合祀は認めていなかったのに、独断で認めてしまい、昭和天皇はそれ以後参拝できなくなった。中国の関係者の立場としても、2分論で、軍国主義日本は悪い奴らだが、その軍人に虐げられた一般の人々は、我々と同じ被害者だとの論で国内を説得していたのが、これで苦しい立場となった。そして、中国側の次善の策として、総理、外相、官房長官の3閣僚が現職時代は参拝しないよう懇願してきた。日本側は、勿論、それを表立って認めたわけではないが、アジア的丸く収める方式で、実行理では暗に認める対応で、現職の間は1回の参拝の後はもう2回目はしないとしてきた。
「自民党を、日本の旧弊な政治をぶっ壊す」と景気の良い小泉さんは、外交も喧嘩の材料にした。知り合いの中国在勤の総領事がこぼしていたが、在勤1年目は、副省長(日本の副知事相当統)にはアポがとれたのに、2年目の参拝後では部長級となり、3年目には課長級と散々なことになった。何事もトップダウンで決まる中国において、下からの積み上げは時間もかかり、成功の見込みはグンと少なくなる。カウンタパートからは、お宅の総理にもう少し考えてもらえないか、反日グループを喜ばすだけだ。当時、慶応大学の某教授が、小泉さんと会合に参加し、小泉さんのやり方は日中間のハードルを高くするだけで、よいことは一つもないと厳しく攻めた。小泉さんは黙って聞いていたので少しは反省したのかとも思った、どうもそうではないようだ。日本が営々と築き上げてきた経済プロジェクトは、おいしく長期のもうけにつながるものは、ドイツその他の欧米企業に軒並みに取られてしまった。その頃日中間は政治は、冷たいが経済は熱い「政冷経熱」などといわれたが、経済も決して得なことはなかったのだ。儲けれるときに儲け、その資金で防衛力、国力を増進させる機会を失わせてしまった。
そして、反日色の強かった江沢民が去り、胡錦濤時代となり、新思考などの動きが出て、日本との和解を増進させようとの動きも躍動しつつあったが、小泉氏の動きはそれらすべてにダメージを与えた。米の大統領は引退後に詳細な回顧録を出すが、小泉時代のブッシュ(ジュニア)大統領は、代わりに夫人が執筆している。ご夫婦で小泉さんとエルビスプレスリーの記念館を訪ねたときの、小泉氏のプレスリーを真似した写真を載せている。真に敬意を表する人に対して、このような写真は掲載しないものだ。同じ芸術に関しては、同じ政治家でもサッチャーさんの前のヒース保守党総理のことを思い出す。80年代、引退したヒースさんは上海を訪問し、その時同地にいた外国人の若者を含め、招待してくれた。興に乗ったヒースさんは、突然にピアノをひきだした。隣にいた中国人の若い女性が、滂沱の涙を流した。近くの人に聞いたら、彼女の父親は日本の芸術大学に当たる上海音楽院の主任のピアノの学科教授で、文革の際紅衛兵に殺されてしまったそうだが、生前よく引いていた曲が流れだしたのだ。音楽に詳しい知人の話では、ヒースさんは音楽家になるか政治家になるか大分迷ったそうだが、そのピアノはプロとして十分やっていける腕前だそうだ。北朝鮮との交渉でも、小泉外交はおかしなことになってしまった。交渉の最前線に立った、両国の担当者の内、日本の田中均外務審議官のカウンターパートのミスターXは、責任を取り処刑されたし、10年に1人と言われていた外交の人材田中氏は、外交の仕事からひっそりと引退し、民間のシンクタンクの仕事に従事している。
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