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2019-06-20 00:00
(連載1)北朝鮮、「苦難の行軍」の再来か
斎藤 直樹
山梨県立大学教授
金正恩朝鮮労働党委員長の祖父であった金日成国家主席と父の金正日朝鮮労働党総書記は「自立的民族経済建設路線」を経済の礎とし、なによりも自力更生を重視した。「自立的民族経済建設路線」とは聞えはよかったかもしれないが、北朝鮮経済の内実は外部世界で生起する事柄に著しく左右されるような脆弱な経済であった。実際に北朝鮮経済を支えたのはソ連を始めとする社会主義圏諸国との貿易と支援であったといっても過言でなかった。しかし1991月12月にそのソ連が崩壊したことにより最大の貿易相手と支援元を絶たれ、北朝鮮経済は一気に追い込まれた。それでも金日成と金正日の二人の金が何よりも頼りにしたのが時代遅れの統制経済であった。その後、1994年7月に死去した金日成の後を継いだ金正日は統制経済にしがみついた。そこに直撃したのが1995年に発生した4年続きの大水害であった。大水害への対応は金正日指導部にとって避けて通れぬ難題となった。大水害に端を発する深刻な食糧不足は大規模な飢餓となり跳ね返り、300万人もの餓死者を招くに至り、金正日体制は崩壊の危機を迎えたとされる。
この期に及んで、無為無策の金正日指導部は外部世界に人道支援を始めて懇願した。このことは「自立的民族経済建設路線」を鉄則として自力更生を掲げてきた金正日にとって金日成が打ち立てた掟を破るようなものであった。しかし背に腹は変えられない金正日は外部世界からの支援を受け入れ、国連人道機関や近隣諸国は膨大な量の支援を北朝鮮に送った。万が一、金正日体制が崩壊するといった不測の事態を回避するため、対北朝鮮強硬派であった金泳三韓国大統領も人道支援に回った。その後、金泳三の後を継いだ対北朝鮮融和派の金大中大統領は「太陽政策」を掲げ、大規模の人道支援を続ける共に南北共同事業を展開した。韓国を始めとする外部世界による膨大な量に及ぶ支援が崩壊の危機に瀕した金正日体制の存続に寄与したといっても過言ではないであろう。しかも当時は、現在北朝鮮経済に多大な打撃を与えている国連による経済制裁は発動されていなかった。
こうして1990年代後半の「苦難の行軍」時代を金正日指導部は耐え凌いだ。その後、2002年7月には物価の引き上げ、賃金の引き上げ、工場への裁量権の付与、田畑の所有の承認、市場の公認、北朝鮮ウォンの引き下げなど、市場経済の試行的導入の響きを持つと言える「経済管理改善措置」に金正日指導部は打って出た。それまで金正日が統制経済にしがみついてきたことを踏まえると、「経済管理改善措置」は経済路線上の驚くべき変更と言えた。しかし「経済管理改善措置」は案の定、急激なインフレを始めとする金正日指導部にとって想定外の事態を続発させた。その結果、金正日は市場経済の悪弊を糾弾すべき、2009年11月に突如、通貨を百分の一に縮小するというデノミに打って出て、国民の猛烈な反感と不満を招いた。そうなると、金正日はその全責任を朴南基(パク・ナムギ)朝鮮労働党経済担当書記に擦り付け、朴南基を粛清することにより事態の収拾を図ったのである。その間、2003年8月から断続的に開催されていた6ヵ国協議(六者協議)は2008年12月までに事実上、頓挫した。これに憤激した金正日指導部が2009年4月にテポドン2号発射実験、5月に核実験を強行し、外部世界を震撼させた。これと並行して、韓国の李明博政権と厳しく対峙した金正日指導部は2010年3月に黄海の係争海域で韓国哨戒艦・天安(チョナン)を沈没させたのに続き、11月には延坪島(ヨンピョンド)への砲撃を強行した。
2011年12月に多くの謎に満ちた人生を送った金正日は他界した。その直後金正日の三男の金正恩が金正日の後を継いだときも北朝鮮の経済状況は必ずしも上向きでなかった。とは言え、当時、金正恩指導部にとって追い風となったのは対中国輸出額の顕著な増大であった。これを押し上げた一因は北朝鮮の主要輸出品目の石炭の国際市場での価格の上昇であった。1トン当たり70ドル程度で取引された石炭価格が2011年から2014年の間、110ドルから201ドルまで跳ね上がると、急激な対中国輸出額増に繋がった。これが北朝鮮の経済成長率を押し上げたとされる。ところが、この間、中朝関係を震撼させる事件が金正恩指導部内で起きた。これが2013年12月に発生した張成沢(チャン・ソンテク)粛清事件であった。金正日の義弟であり側近であった張成沢は金正恩の叔父にあたり、金正恩の後見人として金正日から目された人物であると共に、親中派で中国指導部から絶大とも言える信任を得ていた人物であった。その張成沢が突如、粛清されるという衝撃的な事件は中朝関係に暗い影を落とし、中朝貿易の冷え込みとして跳ね返った。また上述の金正日時代の末期に起きた天安沈没事件や延坪島砲撃事件などは南北交易の激減を招くに至った。(つづく)
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