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2019-05-15 00:00
佐藤栄作総理と台湾
中山 太郎
非営利団体非常勤職員
政治家を揶揄する発言を行ったとして、俳優の佐藤浩市氏の発言が波紋を呼んでいる。昔から特に文化人、学者などは政治家に反抗するのが格好がいいのだとの風潮がある。こうした中で活動をなされている政治家の皆さんはつくづく大変だと思う。5月10日付けの姉妹e-論壇「議論百出」に掲載された長島昭久衆議院議員の投稿記事「令和元年の憲法記念日に誓う『現実的な平和への道筋』」における台湾訪問の記述は印象深いものがある。日本も米国も中国との間で「一つの中国」原則の下、外交関係を進めている。そんなものは蹴飛ばせばよいとの一部の愛国を名乗る人たちの議論は論外だ。長島議員が述べておられるように、(民主主義の政権下)憲法の条文と我が国を取り巻く国際情勢の現実とのギャップをどううまく解きほぐしてゆくかにかかると思う。「中国からとてつもない圧力にさらされた台湾の現状は、まさしく『明日の我が身』に他ならない」は、キーとなる言葉だ。
今東アジア情勢は風雲急を告げている。そうした中、民主主義、市場主義、人権尊重などの共通の価値観を共有する台湾との関係をどう持ってゆくのか熟慮を要する。しかし誤解してはならないのは、台湾は決して一から十まで日本べったりではないということだ。尖閣問題でも中国に近い考えが本音だ。来日したある台湾外交に長らく従事されておられた人物から聴取した佐藤栄作元総理の台湾をめぐるエピソードを何らご参考までに紹介したい。
同人物は、「外交の要諦はSINCERITY(誠実)にありとは、ハロルド・ニコルソンの名著『外交』はじめよく言われている言葉だが、誠実な外交はきちんと人々の記憶に刻まれていることを改めて実感した。佐藤総理は1967年、台湾(当時の中華民国)を夫妻で訪問された。当時国内の左翼団体や国際社会へ登場しつつあった中国からの激しい批判、妨害をはねのけてだ。その年の11月には、佐藤内閣の米国のベトナム戦争支持に反対して、官邸の前で、ベトナムの僧侶がやるように焼身自殺を図るものまで出た。佐藤総理は、蒋介石総統に会うとともに、次の総統を約束されていた息子の蒋経国とも会った。同人は、今一部の台湾の人々の間では、父の影響を上手く淡化させて、戒厳令を解除した台湾社会を上手く軌道に乗せ、台湾の民主化、自由化へと舵を切っていき、そして本省人の李登輝総統へと橋渡しをしたといわれる。佐藤総理が寛子夫人を同伴したのは、蒋介石夫人の宋美齢夫人が参加するという約束だったからだ。しかし、この長老の話では、突然夫人は米国へ逃げてしまったそうだ。佐藤総理は短気なところがあるとの情報を得ていたので、受け入れの現場としては、どんなに怒るかびくびくものだったそうだ。そこは、佐藤総理も寛子夫人も大人の対応で、うまく受け入れてくれたので大助かりだった、日本と台湾との関係を堅固なものとした」と考え深いお面持ちで話した。
そして同人物は、「1971年の国連での佐藤内閣の台湾援護は、米国が大国の論理で陰で動き、孤立の中で負けてしまった。佐藤総理は、国内で野党、世論のみならず、与党内からも激しい批判を浴びた。内閣下野にもつながった。なお、1975年の蒋介石総統逝去に際して、日本政府の特使として、佐藤総理は、山中貞則議員一人を同伴して葬儀へ急遽参列された。山中議員は自民党税調で活躍され『税調のドン』などとも呼ばれている。一部からは武闘派だと毛嫌いされているが、実は、台湾の今次大戦に参加し死去されたり、負傷された軍やそれ以外の人々への恩給支払いなど多大な尽力をされた方で、さすが『人事の佐藤』と言われるだけあって、人をよく見ておられる」と述べておられた。
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