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2019-01-22 00:00
(連載2)「祖流我放」ファーウェイを巡る仁義なき戦い
加藤 隆則
汕頭大学長江新聞與伝播学院教授
同じように今回、カナダ政府を巻き込んだ米中の場外乱闘について、法と証拠を持ち出して分析をしても大きな意味はない。この点で中国のネット言論はたくましい。米国からの奇襲に対する中国政府の報復を受け、たちまち広まった言葉は「祖流我放」だ。「“祖”国も“流”氓(ヤクザ者)だから、“我”(私)は“放”心(安心)だ」との意を四字熟語で表した。私は知人から知らされ、図太さとユーモアに敬服した。いくら中国の外務省や共産党機関紙の『人民日報』が法や人権、道義や文明を説いて舌戦を交わそうと、内実は仁義なき戦いでしかない。そんなことはとうにお見通しなのだ。
政府が責任逃れのために金科玉条の「自己責任」ルールを持ち出し、メディアが無批判に追随し、みなが一緒になって問題の核心から目をそらす。微小な個人の存在を顧みもしない冷酷非情な国に対して、みなが物分かりよく沈黙を守っている。これが日本の姿だ。ファーウェイ事件がもしそんな日本に降りかかってきたら、政府もメディアも含め、まずは重箱の隅をつつくように違法性を詮索するに違いない。わずかでも個人に落ち度が見つかれば、たちどころに自己責任論が登場する。フジタ社員が拘束されたあのとき、社員への同情よりも、日本人の失態として白眼視した人が少なからずいた。
中国では法をたてに情を無視する態度を「法匪」と言ってさげすむ。秦の始皇帝が法家を重用し、非情な圧政を敷いて以来、革命という名の裁きが人権を蹂躙した文化大革命もまたしかり、中国にあって法は統治の手段でしかなかった。だからこそ儒教の説く情が尊ばれ、「合情合理(情理にかなう)」こそが人の道のあるべき姿だとされてきた。「祖流我放」はそんな正直な感情を伝えている。漢字を巧みに操ることにかけては数千年の実績があるので、感心させられる表現にしばしば出会うのだが、冗談交じりに「祖流我放」とささやき合う人たちをみるにつけ、どこかかつてとは違った印象を感じる。
つい数年前まではこうだった。まずはネットで、傷つけられた民族感情を煽る刺激的な言論が沸騰する。糸に操られたように、怒れる愛国青年たちが外資の店舗や工場、外国大使館に結集する。「出ていけ」とヤジを合唱しているうちに、だれかが石を投げつけ始め、しまいには襲撃や強奪に発展する。だが昨今、そんな姿はすっかり影を潜めた。中国社会で暮らしながら、ここ数年で何かが変わったと肌で感じる。(おわり)
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