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2007-03-26 00:00
東アジア共同体の価値観をめぐる問題
村上正泰
日本国際フォーラム研究主幹
3月23付投稿で石垣泰司教授が「自由と繁栄の孤」に関連し、中国側の反発、警戒心が根強いことを紹介されたうえで、「ASEAN諸国は、日中間における緊張関係には極めて敏感であるので、東アジア共同体構築におけるわが国の当然極まりない普遍的価値の主張に別途の考慮からの警戒心が持ち込まれ、ASEAN諸国がより慎重となるような状況を自ら作り出すリスクは避けるのが賢明であろう」と述べておられる。共同体構築においては基本的なところでの価値観や利益の共有が不可欠であるが、「自由と繁栄」という普遍的価値でさえそのような緊張を引き起こすとすれば、東アジア共同体とは一体いかなる理念に立脚するものなのか、言い換えれば、多様な異質文明が存在するこの地域をまとめていけるような理念は何なのかということが改めて問われてこよう。「アジア的価値」という曖昧な言葉から脱して具体的に考えようとすればするほど、容易に答えを見いだすことはできないが、決して避けて通ることのできない問題である。
ところで、「自由と繁栄の孤」と言った場合に、地理的に外されているかどうかは別として、理念的な次元において中国が警戒するのは「繁栄」よりも「自由」であろう。東アジアにおいては、多国籍企業による貿易と直接投資が相互依存的に拡大する中で、市場主導による事実上の地域統合が進んできており、中国自身もこうした経済的ダイナミズムの中で急速な成長を遂げている。したがって、「繁栄」ということが東アジアにおける共同体構築にとって大きな原動力のひとつであると言えるし、中国が警戒心を抱くような理由もなかろう。
他方、中国にとっては、その国内体制ゆえに「自由」の方にこそ問題がある。我が国にとっては「自由」は戦後一貫して基本としてきた理念であり、「繁栄」と結びつけて考えやすいけれども、東アジアにおいては「自由」と「繁栄」のあいだを簡単に「と」で接続することのできない現実があるということになる。しかし、だからと言って「自由」に代わる理念がある訳ではなく、経済的利益を中心として進められてきた東アジアの地域統合においては、いまだそれを超える積極的な理念があらわれているとは言い難いということである。
我が国は、これまで「自由」という理念を外交の次元においては日米関係重視という姿勢で体現してきた。その文脈で考えるならば、「自由と繁栄の孤」をめぐる問題は、結局のところ、東アジア共同体に関して「アジアをとるのか、アメリカをとるのか」という繰り返しなされる議論にもつながってくる。この点については、私は昨年12月18日付投稿において「アジア外交と対米関係の両立を図るべき」であると述べたが、この困難な課題に地道に取り組んでいくしかない。かつて故高坂正堯教授は我が国の独特なポジションを評して「飛び離れた西」と述べたことがある(「海洋国家日本の構想」)けれども、当時に比べると大きな時代の変化があるとは言え、問題の基本的な構図に変わりはない。そうした位置にいる我が国にとって、「自由」と「繁栄」をつなげていく作業はその外交力が問われる課題である。
その際、もちろん「自由」と言っても、そこに何かしらの秩序をもたらそうとすれば歴史的ないし文化的な基盤に立脚することとなり、具体的な制度のあり様は多様たらざるを得ない。このことは、とりわけアジアにおいて当てはまるであろう。しかしながら、だからと言って普遍的価値の共有が不要ということを意味するものではなく、むしろそうであればこそ、異質な他者と共存し合っていくうえで前提となる普遍的価値については絶えず確認される必要があり、そうした中で共通性の拡がりを追求すべきであろう。
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