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2007-03-02 00:00
連載投稿(4)遂に日本を参加させることに成功
山下 英次
大阪市立大学大学院教授
前回までに述べてきたように、主としてシンガポールの尽力により、ASEM(アジア欧州会合)が発足することになり、1995年12月に第1回ASEM全体高級実務者会合がマドリッドで、1996年3月に第1回ASEM首脳会議がバンコクで、それぞれ開催された。
当時外相、首相を歴任されていた羽田孜元首相が、数年前ある公の場でおっしゃっていたことなので間違ないと思うが、当初シンガポール政府から日本政府に対してなされた打診は、「この度ASEM を立ち上げるが、日本もオブザーバーとして参加しないか」というものだったという。そのように言われ、プライドを傷つけられた日本政府は、「アジアとヨーロッパの会合に日本が入らないのは不自然だ」として、当然フル・メンバーとして参加することになった。シンガポールが、日本に対して、オブザーバーでASEMに参加しないかと打診したのは、おそらく日本をインボルブさせるための高等戦術だったのではなかっただろうか?そのように言われれば、日本政府も、「いや、日本はフル・メンバーとして参加する」と言うに決まっているではないか。
1996年3月の第1回ASEM首脳会議は、基本的には、アジア諸国(「ASEAN+3」)の首脳とEU諸国(当時15カ国)の首脳が一堂に会する会合であったが、その際、別途、アジア側の首脳だけの会合も開催された。これが、まさに「ASEAN+3」という枠組みの実質的な開始となった。換言すれば、日本政府は、ASEM首脳会議に、アジアとヨーロッパが一堂に会するお座敷に参加するつもりで行ったが、別途、アジアだけのお座敷も用意されていたということである。
そのアジアだけのお座敷は、アメリカの強い反対に遭って日本が参加を見送り、頓挫していた1990年12月のマハティールのEAEG構想と同じメンバーだったのである。そして、1997年12月、第1回「ASEAN+3」首脳会議がマハティール首相(当時)のホストの下にクアラルンプールで開催された。これが、EAEG構想が「ASEAN+3」と名前を変えて実質的にようやく実現した瞬間であった。
このときのアジア諸国の日本に対する対応は、好き嫌いの激しい子供に、母親が何とかピーマンを食べさせようと思い、ハンバーグ・ステーキの中に細かく切ったピーマンを入れて食べさせようとしたようなものではなかっただろうか。つまり、日本も、これなら食べられるでしょう、と言われたようなものである。かくして、アジア諸国は、日本を参加させることに遂に成功した。アメリカの反対にもめげることなく、アジア諸国は長年かけて非常に粘り強く働きかけ、実質的にはEAEG 構想の実現に成功したのである。(つづく)
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