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2007-02-03 00:00
連載投稿(2)ある米国少年の悪戯とシンガポール外交
山下 英次
大阪市立大学大学院教授
1994年4月、シンガポールのゴー・チョクトン首相(当時)はフランスを訪問し、バラデュール首相(当時)と会談したが、これがきっかけとなって、後にアジア欧州会合(ASEAM)が実現した。1996年3月、バンコクで開催された第1回ASEM首脳会議の折、EUとアジアの合同の会議とは別に、アジア側、すなわち「ASEAN(当時7カ国)+3」だけの会合も開催された、これが事実上、今日の「ASEAN+3」の枠組みの始まりとなったことは良く知られているところである。
そして、これは、実質的には、1990年12月、マレーシアのマハティール首相(当時)が提案し、アメリカの反対に気兼ねしたわが国が参加を見送ったために頓挫していたEAEG(東アジア経済グループ)の蘇生にほかならない。つまり、「東アジア」と高姿勢(high profile)に銘打つと、あたかも日本と中国が中心になって、米国抜きのアジアの枠組みを作ったかのように認識されかねず、例によって米国の激しい嫉妬心を刺激することになるので、余りたいしたことのないASEANを前面に出すことで、低姿勢(low profile)で行こうということである。すなわち、「ASEAN+3」は、実質的にはマハティールのEAEG構想が名前を変えて出てきたものにほかならないのである。
それでは、ゴー・チョクトンがなぜフランスに、ASEMの創設を働きかけたかというと、当時、シンガポールとアメリカとの間に外交上の軋轢が生じていたことが見逃せない。事の発端は、1994年3月、シンガポールの裁判所が、同国の路上で自動車にスプレー式のペンキで落書きするなど悪戯を重ねたマイケル・フェイという米国の少年に対して、同国の法律に則って、鞭打ち刑を含む厳しい量刑を科したことに始まる。これに対し、アメリカは、鞭打ち刑は人道に反するとしてシンガポールを激しく非難し、外交上の軋轢が高まっていた。
ゴー・チョクトンは、1994年10月、フランス(当時EU議長国)に対して正式にASEM創設の提案を行った。他方、フランスは、クリントン政権(1993年1月誕生)になって以来、米国がAPECの枠組みを通じて、成長著しいアジアに攻勢をかけてきていたのに対し、これを牽制する意味合いから、ASEMというシンガポールの提案に直ちに賛同したものと推察される。いずれにせよ、以上のような経緯を経て、「ASEAN+3」が誕生したのである。(つづく)
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