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2007-01-22 00:00
連載投稿(1)「ASEAN+3」誕生物語
山下 英次
大阪市立大学大学院教授
東アジア共同体の枠組み作りについて、中国が主張する「ASEAN+3」13カ国とすべきか、それとも日本が主張する「東アジア・サミット」16カ国とすべきか、という言われ方が最近良くなされるが、そうした見方をすること自体に、私は強い違和感を覚える。
これは無論、日本政府が度を越した対米配慮とASEANを巡る中国との主導権争いから、2005年12月の東アジア・サミットの際、参加国の拡大提案をしてしまったことに始まる。東アジア共同体作りにおいて、オセアニアを入れるべしとする日本政府の提案は、2002年1月の小泉首相のシンガポール政策演説以来のものではあるが、「ASEAN+3」13カ国の政府代表によって構成された東アジア・スタディ・グループ(EASV)の最終報告書(2002年11月)で、この13カ国で東アジア共同体を目指すと謳われたにもかかわらず、日本政府はその後も拡大提案のゴリ押しをし続けているわけである。
「ASEAN+3」では中国のリーダーシップに対抗できないと日本政府は考えているのかもしれないが、短期的な中国との外交ゲームに明け暮れている場合ではない。アジア地域統合は、わが国にとっても死活的に重要なのであり、長期的な展望の下に、中国とともにアジア地域統合を指導するという姿勢が必要とされる。残念ながら、現状では、アジア地域統合の日本にとっての必要性という点に関する日本政府の認識は、極めて不十分であるといわざるを得ない。
「ASEAN+3」は、ASEAN諸国と韓国の長年にわたる非常に粘り強い努力によってようやく日の目を見た枠組みなのであり、わが国はそれに対する感謝と尊重の念を忘れてはならない。このような問題意識から、何回かにわたって、「ASEAN+3」誕生の経緯について記して行くことにしたい。(つづく)
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