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2015-12-20 00:00
(連載2)ジブチにおける中国の軍事拠点建設がもつ意味
六辻 彰二
国際政治学者
中国政府は2013年からユーラシア大陸を横断する交通網の整備により、供給過剰になっている中国製品の販路拡大を目指す一帯一路構想を掲げています。ソマリア沖やアデン湾を含むアラビア半島の一帯はこの構想圏に含まれており、この観点からも中国がこの地域の安定に関心をもつことは不思議ではありません。ただし、ジブチを含むアフリカは、アジアと比較より一層、中国がデリケートな扱いを心がけざるを得なかった土地です。それは、アフリカ各国の多くが中国の国際的な立場を支えてきたことによります。中国によるアフリカ進出は、1950年代半ばにさかのぼります。スターリン没後の中ソ論争で、東側の盟主・ソ連との関係が悪化した中国は、他方で西側の超大国・米国とも対峙しなければなりませんでした。このなかで中国は、「世界最大の開発途上国」と自らを位置づけ、独立間もない開発途上国を味方につけることで、国際的な孤立を回避しようとしたのです。なかでも1960年前後に独立し、反植民地運動の熱気が冷めきっていなかったアフリカ諸国は、その主な対象となりました。中国は1956年のエジプトを皮切りに、相次いでアフリカ向けの援助を実施。そのなかには、ナミビアやジンバブエ(ローデシア)の植民地解放闘争に対する軍事援助なども含まれ、ヨーロッパ諸国や南アフリカなどの白人政権に対する反帝国主義を掲げる中国は、少なからずアフリカで支持を受けることになったのです。中国は1972年に台湾(中華民国)から「中国」の国連代表権を勝ち取りましたが、この際に毛沢東は「アフリカの友人のおかげ」と言ったといわれます。
しかし、中国自身が改革・開放を推し進めた1980年代以降、その対アフリカ・アプローチには、経済的な関わりが増えていきました。爆発的に増加する中国製品の市場として、そしてエネルギーや食糧の調達先として、アフリカの持つ重要性がクローズアップされるようになったのです。1989年の天安門事件で西側先進国から経済制裁を受けた際、再び国際的孤立に直面した中国が頼ったのは、やはりアフリカ諸国からの外交的支援でした。当時、西側先進国はIMFや世界銀行を通じて(ちょうど最近のギリシャと同じように)アフリカに対して規制緩和や「小さな政府」を強要しながら融資を行っていました。西側先進国からの「外圧」や「内政干渉」にやはり直面していたアフリカは、貧困国が多いものの、国連など「一国一票」のルールが適用される場では、その数を頼みに中国を支援することが珍しくありませんでした。こうしてみたとき、中国とアフリカの関係は、最近よく目にする「中国が援助でアフリカを買収している」といったトーンだけで語られるものではないといえます。
ただし、こういった「互恵関係」は、むしろ最近になって怪しくなってきました。2003年に発生したスーダンのダルフール紛争で、5年間で40万人以上のアフリカ系の住民を無差別に殺害するアラブ系民兵組織を支援したとして、国際刑事裁判所(ICC)から逮捕状が発効された同国のアル・バシール大統領を擁護し、国連安保理での制裁決議に拒否権を発動した一方で、同国での油田開発やインフラ整備のための投資・援助を続け、石油を購入し続けたことは、「アフリカにおける中国」が、少なくとも西側先進国で批判の矛先となる決定的な転機となりました。これを契機に、中国はアフリカ向けの援助をむしろ本格化させてきました。例えば、2012年の第5回中国‐アフリカ協力フォーラム(FOCAC)で、中国政府は200億ドルの融資を約束しています。さらに、ジブチ政府による中国の軍事施設建設の発表と同じ12月4日に開催された第6回FOCACでは、3年間で600億ドル(7兆3,600億円)を投資することが明言されました。ダルフールの問題などに関して、中国政府は「内政不干渉」の原則を盾に、むしろ西側の「内政干渉」を批判するなど、先進国に対しては強硬な姿勢を崩しませんが、アフリカに対しては話が別です。つまり、1950年代からの関係だけでなく、「大国」としてよりその発言力を増すためには国際的な支持が欠かせず、そのためには嫌でも応でもアフリカ内の世論に反応せざるを得ないのです。
これに加えて、2000年代半ば以降、中国企業によるアフリカ系労働者の搾取や自然保護区での資源開発といった問題が噴出しています。それにともない、各国の市民レベルでも、かつては無条件に歓迎していた中国企業や中国人商人に批判的な目を向ける人も増えており、アフリカ各国政府はこの国内世論を無視できません。その結果、例えばボツワナでは、中国人商人に最低4人のボツワナ人を雇うことなどが法律で義務付けられており、その新規移住も規制の対象になっています。こういったアフリカ内の変化は、中国政府をして「アフリカへの貢献」をより強調させることを促してきたといえるでしょう。ところで、中国による「アフリカへの貢献」は、民生分野だけでなく、安全保障分野でも進められてきました。冷戦期から、中国は「世界の警察官」を自称する米国が海外で軍事活動を行うことを「帝国主義的」と非難してきました。また、国内の経済改革にエネルギーを傾けていたこともあり、国連の平和維持活動(PKO)にもほとんど参加していませんでした。しかし、1991年に西サハラでの国連PKOに初めて要員を送ったのを皮切りに、少しずつその規模は拡大。特にダルフール紛争後はこれが急激に加速し、2008年には合計1,981名がアフリカでの国連ミッションに参加し、約300名を派遣していた米国を凌ぐに至りました。(つづく)
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