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2015-10-16 00:00
(連載1)プラザ合意30年、対米協調の名のもと沈む日本経済
田村 秀男
ジャーナリスト
1985年9月22日の「プラザ合意」から30年経った。若者にはいまひとつピンと来ないかもしれないが、45年8月30日に続く「第2の敗戦」とも称されるほど、日本経済の運命を暗転させたのがこの国際合意である。その日、ニューヨークのプラザホテルに日米独(当時は西独)英仏の5カ国(G5)の蔵相・中央銀行総裁が集まって、ドル高是正のための国際協調で合意した。ワシントン特派員だった筆者はその日、たまたまニューヨークに出張していて、記者会見場に駆けつけた。
壇上では、身長2メートル超のボルカー米連邦準備制度理事会(FRB)議長の脇で、議長の肩にも届かない小柄な竹下登蔵相(当時、後に首相)が頭の上に手をかざして背比べのまねをしておどけていた。対米協調は表看板で、内実は対米追従の日本という構図を取り繕うとする、竹下氏特有の照れ隠しだったのだろう。実際に、合意後日本の大蔵省(現・財務省)と日銀は米国の求めに応じて、通貨・金融政策を展開することになる。
合意前、1ドル=240円前後だった円の対ドル相場は急上昇を続けるのだが、ベーカー米財務長官(当時)はドル安・円高水準はまだ不十分、とたびたび口にする。1年後には150円前後になると、米側も止まらないドル安にあせり始めた。87年2月にパリ・ルーブル宮殿で開かれたG7(G5とイタリア、カナダ)蔵相・中央銀行総裁会議で為替相場安定のためのルーブル合意が成立した。ドイツがその後、対米協調を拒否したために、合意は空中分解し、ドル安、株安、国債相場下落の「トリプル安」への不安が高まり、87年10月19日にはニューヨーク・ダウ工業平均株価が一挙に前週末終値比22.6%の史上最大の暴落に見舞われた。
G7の中で米国に忠実なのは、日本だけである。米国の意を受けて、大蔵省は日銀に圧力をかけて利下げさせ、超金融緩和を続けさせた。あふれる円資金は株と不動産市場に流れ込んで、バブルを膨張させた。一部は米国向けの不動産や証券投資や直接投資に振り向けられ、米市場に寄与する。80年代末から90年代初めにかけ、政府・日銀は金融引き締めに転じるとともに、不動産部門への融資を制限、株と不動産のバブルは崩壊、日本経済は90年代後半から慢性デフレに陥り、現在に至る。(つづく)
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