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2006-11-17 00:00
二つの国際化と二つの外交
四条秀雄
不動産業
国際化というと、アングロ・サクソン諸国の主導するグローバリゼーションが思い起こされますが、海の交通が活発でなかった昔の時代には、陸の交通を通じた国際化が主流でした。人種のるつぼというとアメリカのニューヨークや欧州のロンドンやパリなどの諸都市が思い浮かびますが、これらは新しい時代の国際化が生み出した様相だと言えます。それでは古い時代の国際化はどんな様相をしていただろうか?と考えると、それは現在でも中央アジアに諸民族集団がモザイクのように混在した状態で存在しています。
この二つの国際化は、言語的にも異なっていて、海の国際化はラテンや英語や中国語、陸の国際化はスラブやトルコ・アルタイ系の諸語の民族が担っています。
私は、民族と言うのは人種であるよりも語族で分類した方がよいと考えていますので(日本人と日系アメリカ人や日系ブラジル人は、人種的には同じでも民族性は明らかに違います)、この二つの国際化の様相・言語的な違いは、日本の対外関係の手法にも違いを要求するのではないかと思っています。以前にも書きましたが、本来日本は陸の国際化のグループに属する地域であり、喩えて言うなら、「島に閉じ込められた中央アジア」というべき地域であり、そのために日本とこのグループの間では言語習得上も相互に比較的容易であり、例えば日本の文学や音楽や映画などはこれらの地域ではより受容されやすいだろうと予想しています。
この二つの言語グループの世界観の違いは、例えば星空を見て、星座を設定して物語を作り上げる世界観と星の運行を観察して占星術を作り上げる世界観の違いに喩えられます。星座物語は、1000の民族があれば1000の物語があるでしょうし、世代単位の長時間の接触を通じてゆっくりと物語が民族間で共有されていくでしょう。占星術は、星の運行によって予言がテストされ、淘汰選択され、収斂してきたのでしょう。陸の国際化のグループでは、このような星座物語の共有のような時間スケールと形式で交流が進むので、例えば現在の日韓関係のように歴史物語や領土物語が異なってしまうと全く収拾がつかない状態になります。
が、歴史物語や領土物語は現実の生活にはほとんど無関係ですので、言語的近接性から民族間の現実の交流は進む関係になります。モンゴルや中央アジアや南アジアやイラン、トルコとは、物語の衝突はありませんので努力した分だけ、共有する時間と歴史が蓄積して、外交関係は良くなると思われます。ロシアなどのスラブ圏も、おそらくこういう関係にあります。ただし、ロシアの暴力的な土壌が歴史的に見てしだいに収束していくものなのか、ある程度はそれが常態なのか研究が必要でしょう。利権が絡まない限りは、おそらく大部分の日本人は生身のロシア人に良い印象を持つものと思います。現在のロシアは、旧KGB官僚制と利権が結びついた何とも表現しがたい国家体制です。この利権集団としての旧KGBが、新規のメンバーをどのように獲得して、組織を維持していくのか?序列システムが優位になるのか、派閥システムが優位になるのか、組織体としての将来の安定性がまだ分かりません。ロシアに対しては、経済関係や領土問題を凍結して、政治家間の接触の拡大や学生の受入れ等を強化すべきです。多極化の時代は、人質を交換した戦国時代と同様、人の交換が国家間の関係を強化するでしょう。日本は、この古い陸の国際化のグループとの関係を人の交換を通じて強化していくべきです。
さて、もう一方の海の国際化のグループですが、このグループはおそらくは歴史のどこかで同規模の異民族同士が征服等で強いられた混住をした結果、意識や情念の方向や状態を表す格・助詞を失い、それが混住の第二世代まで残存して母語化してしまった集団なのではないかと思います。英国ではノルマンやフランスの征服が長期間続きましたし、中国は歴史を通じて征服の連続であり、ラテン諸国は民族大移動の終着点でした。また、最近日本でも外国人が多くなりましたが、彼らとの日本語の会話で使い方の難しい助詞の欠落は日本人の誰もが気がつくことです。陸のグループの民族は、概して陰性でウェットな印象を与えるのですが、海のグループは、陽性でドライな印象を与えます。これは、意識や情念を託す格・助詞の消失、欠落の結果、動詞や前置詞や形容詞や或いは語順に、情念や意識が分散し表現されるためではないかと思われます。現実に存在する動作や方向や言葉を使ってしか、言語的に感情や情念を伝えることができない制約を受けているためだと思われます。ラテン系の人々はとにかく動き回ることが大好きであり、米英人は議論や冒険や宣教が好きであり、中国人は移住にためらいがありません。日本人の場合には、同一の状況で同一の感情や認識が生成されることを期待して、言語活動がなされます。日本人の議論が、言いっぱなしの情報交換に終始しがちなのは、議論の目的が専ら情報交換に置かれているためで、概念間の論理構造のチェックではないためでしょう。そういうわけで、海のグループの外交は、長期間にわたる世界観の調整や共有ではなく、行動等のルール化となります。何故なら、行動や議論こそが、意識や意思や感情の表れる場所であり、その社会化とは、それらへの規制という形式を取るからです。最も良い例はかつてのイギリスでしょう。それが余りにキツイために反発として米国という文化の様相があるのでしょう。
明治以来、日本の知性の悩みであった、近代的自我や西洋的知性は欧米言語の賜物であり、それを日本語の制約のなかで実現しようとすれば、助詞を落とすか制限するか、前置詞の役割に準じるモノとモノの関係を表現する一式の用語法などを備えた文体を確立することで近似するしかなかったことになります。
話は変わりますが、最近日本語を母語とするイラン人の子供の強制退去を法務省が決めたようですが、私は、この「語族的日本人」を「国籍法日本人」の厳格な定義に基づいて日本から追放することに反対します。国籍法など、たかだか百数十年の産物であり、それに比べたら1000年以上の歴史を持つ日本語の方が重い。日本語を話す人間が多ければ多いほど、国力は上昇するという観点は忘れたくない。
このような観点から見ますと、最近行われた安部首相の訪中は、明らかに外交手法の誤用であると思われます。中国に対しては、陸の国際化のグループ用の外交手法は無効であり、「安部首相が訪中した」という行動が全てなのです。私は、以前にも言いましたように、今回の訪中は大局的に間違いであり、現在は、戦前の日本が中国の泥沼に引き釣り込まれた状況と非常に良く似ていると怖れています。それにしても、私が理解できないのは、日本では「東アジア共同体」のような空想的構想には大量の人材を投入しながら、他方で、アフガニスタンにはまるで関心を向けず、それでいて中央アジア諸国には経済関係強化を訴えるという矛盾した外交を続けていることです。はからずも中央アジア諸国が日本に対して強調したように「中央アジア諸国と関係を深めたいなら、なぜアフガニスタンに関心を持たないのか?アフガニスタンが安定しない限り、中央アジアは世界に開かれないのだ。中露二ヶ国の影響下に置かざるをえないのだ」ということです。中央アジア諸国の首脳が、日本に対してわざわざそういうことを言わざるを得ないほど、日本の外交は馬鹿げているのです。
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