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2006-10-25 00:00
農民の苦悩を踏まえた農業改革論議を
長岡 昇
朝日新聞論説委員
10月18日付け「CEACコラム」に転載された伊藤元重氏の「農業にも構造改革の目を向けよ」を拝読した。「日本の農業は危機的な状況にある」という書き出しと「農業にこそ構造改革の目を向けなくてはいけない」という結語はその通りであり、ともに異論はない。だが、その内容に「説得力が足りない」と感じた。なぜなのか。つらつら考えてみた。
私は東北の稲作農家の長男に生まれたのに、後継ぎになることを拒んで新聞記者になった親不孝者の1人である。2年前、父親が命終し、故郷の田畑は80歳をすぎた母親が守っている。「何とかしなければ」と思うのだが、なすすべもない。伊藤氏は、農民が農地を手放そうとしないことについて「道路ができたりすることで高く売れることを期待しているのか」と書いている。都市近郊の農民には、そういう人もいるだろう。けれども、多くの農民が置かれている状況はそのようなものではない。「売りたくても、農地が余りにも安くて、せつなくて売れない。買い手も見つからない」というケースが多いのだ。先祖代々、汗みどろになって耕してきた土地である。自分の代でそれを手放すのは、耐えがたいことだ。せめて「しかるべき対価」が得られるのなら納得もできるだろうが、それも得られない。農地をどんどん買い集めて大規模農業に乗り出そうという農民もあまりいない。「高値期待か」といった言葉を投げつけるのではなく、多くの農民が抱える、こうした苦悩を理解したうえでの「農業構造改革論」であってほしい。「農業にも企業の参入を認め、より生産性の高い事業者に(農地が)貸与あるいは売却される機会を拡大すべきである」という主張には、私も賛成だ。ただし、経営センス抜群の人が参入したとしても、今の日本で農業を営んで収益を上げるのは並大抵のことではない。そのことは、はっきりさせておくべきだろう。
広い農地を抱え、大型のトラクターとコンバインを使って営まれるアメリカ農業ですら、今ではブラジルやオーストラリアの農業に押されて世界市場で競争力を失い、政府の輸出補助金に頼っているのが実情だ。日本の農業をそのまま市場の競争にさらせば、ほんの一部しか生き残ることができないだろう。努力すれば他国と十分に渡り合える「普通の産業」と比べながら農業を論じるのは、やはり無理がある。むろん、農業を聖域化してはならないし、競争原理をもっと働かせなくてはならない。だが、日本農業の競争力の限界を見据えれば、やはり欧州諸国が採用している「農民への所得補償政策」を日本でも導入するしかないのではないか。食の安全、食糧自給率の向上、そして環境保全のためのコストとして、税金を使って農民の所得を補償し、農業を支える――そうした国民的なコンセンサスをつくる必要がある。そのうえで、農水省の解体をはじめとする、大胆な農業改革に乗り出すべきだ。
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