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2014-02-28 00:00
求められる、“教養”と“常識”
大宅 映子
評論家
私が一番憂いているのは、専門家に対する不信感と、極端な対立図式がひどくなった昨今の風潮である。もともと日本では、「違う」ということが良い価値ではなく、「60-70%がそうだ」という意見が良い意見で、あとは「変だ」と切り捨てられる。しかも近頃は、やさしさ優先なので、相手を傷つけてはいけないからと、対立しそうになったらそれを俎上にはのせず避けてしまう。だから、いつまでたっても冷静に議論しあうという土壌が育たない。
しかし近頃は、対立の幅の大きい難題が噴出している。原発、TPP、秘密保護法、憲法改正etcである。食べるものもやっと、という時代なら、「まず食料確保が第一ですね」と問われれば、国民のほとんどは「イエース」と答えただろう。しかし、原発となったら、そうはいかない。原発という素人には解り難い、想像を絶する巨大メカニズムについては、専門家の意見を聞かねば「イエース」とはいえない。
ところが福島の事故の際、テレビに出てくる“専門家”の発言は、相変わらずの「絶対安全」から「即刻やめろ」まで、幅広く多種多様で、どれを伝えて良いやらわからなくなった。TPPにしても同じ。「日本の農業は壊滅する」から、「入らないと日本の農家がつぶれる」という論まで、これまた多種多様。
それぞれが自分に優利な数字だけを、良いとこ取りして、自分に優利な結論を導く。上手な扇動家がいると、お盆の上の豆のようにザザーっと極論に流れてしまう。正解はどこにあるかよくわからないが、両極の論にあるとは思えない。その中間のどこか、をさぐりあてるのは、一人一人の基礎知識と、相手の言い分を聞く耳を持ち、かつ建設的な意見を冷静にたたかわせ、「この辺かな」と落とし所を決める、“教養”と“常識”を持ち合わせているかどうかなのだ、と考えている。
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