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2013-12-30 00:00
中国の「批判する自由」を考える
池尾 愛子
早稲田大学教授
12月28日、中国の全国人民代表大会(全人代)常務委員会は、「労働教養」と呼ばれる行政処分制度の廃止を決めたと、テレビや新聞のニュースで報じられたと、中国国営の新華社通信が伝えたとのことである。「労働教養」とは、公安当局が裁判抜きで最長4年まで「労働教養所」に市民を拘留して、矯正を目的に労働を強制できる制度とされる。
中国を訪問しても、政府に対する批判はまず聞こえてこない。中国から、アメリカ批判、ヨーロッパ批判は聞こえてくるが、いずれもパタン(型)があるようだ。ヨーロッパ批判はギリシャが絡むユーロ危機が表面化してから以降によく行われるようになったと感じられ、アメリカ批判のパタンの方がヨーロッパ批判のパタンより多い。誰か(権威者)が言った科白がパタンとなって、同じような言い回しの批判が繰り返されるように思われる。パタンに従っている限り、安全なのであろう。
「批判する自由」というのは1年くらい前まで考えたことがなかった。しかし、中国では、「公に批判する自由」が対日批判に限定されているように感じられるのである。言い換えれば、「公に批判する自由」が日本批判を除いて、事実上、禁止されているのではないだろうか。日本批判にしか、中国の人たちの自由な批判的精神は発揮できないのではないだろうか。
「裁判なしでの強制労働は廃止」の意味に世界は注目していることであろう。日本に対する批判以外でも、創造性に富んだ自由な批判活動が社会的に行われるようになるのだろうか。徐々にでかまわないので、建設的な姿勢での社会的批判活動が少しずつ育ってゆかないかと期待しているのであるが、いかがであろうか。自由な批判活動は対日批判に限られるというのであれば、それは淋しいことであり、また社会科学分野で自由な研究活動の妨げにもなると思われるのである。
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