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2006-09-19 00:00
「日中関係放置論」は放棄しなければならない
舛島 貞
大学助教授
中国報道などを見ると、安倍長官の2006年8月3日の「東京・北京フォーラム」での発言は、もちろん警戒心はなくならないものの、相当中国側の安心させたようである。だが、小泉総理が最初の参拝の後に訪中したあと、中国側首脳が今後参拝はしないということだ、と感じたような誤解が安倍長官にも適用される可能性がある。つまり、今後参拝はしない、というメッセージとして中国側首脳が受け取った可能性は否定できない。
日本側では、「参拝前提の日中友好論」が中枢にあり、それが受け入れられなければ首脳交流がなくてもいいという、「日中関係放置論」が広がっている。だが、中国では日本問題は既に中南海の首脳の扱う問題となっており、実務レヴェルではルーティーンはまわせても、新たなことは決められない状態にある。
白石隆氏は、CAECコラム(2006年8月4日)の「日米中三極会合を」において以下のように述べている。「ではどう考えればよいのか。問われるべきは、中国が国力の発展とともに、ますます一方的行動をとるようになるか、もっと協調的になるかだろう。あるいは政策論としては、中国がもっと協調的行動をとるようにするにはどうすればよいか、中国ができるだけ一方的行動をとらないよう、そのコストを上げるにはどうすればよいかである。これが中国に対する関与と抑止の戦略の基本にある問題である」と記している。要するに、対中政策は関与と抑止ということだろう。これは、中国の外交、将来像が、対話可能な合理的な存在となるか、それとも秩序を混乱させる非合理的存在となるかが未知数(中国政府は当然前者であろうとしているが)である現在においては、もっとも有効な政策だと思う。
しかし、靖国神社参拝問題が未決のうちは首脳会談はしない、基本三文書堅持、日中友好論継続という政策を採り、日本案件を「領導」マターにした中国の首脳を、どのように日米中の三極会議に引きずりだすか。また、米中の一角をなす存在として日本を認めさせるか。白石氏の方向性を採るためには、少なくとも新政権が「日中関係放置論」は放棄しなければならないということになるだろう。
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