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2006-09-09 00:00
「第5回日ASEAN対話」に参加して: 「ASEAN+3」と「EAS」
小笠原高雪
山梨学院大学教授
東アジアにおける共同体づくりの基盤として最も適切なのは「ASEANプラス3(APT)」=ASEAN+3か、それとも「東アジア・サミット(EAS)」=ASEAN+3+3かをめぐる議論は現在も継続中だが、これについてはさまざまな考え方が可能であろう。
9月8日の「第5回日ASEAN対話」において、第一セッションの「討論者」に指名された私は、以下のようなコメントをした。(1)この問題をめぐる日中間の相違は単なる権力闘争ではなく、民主主義や人権といった普遍的価値の位置づけとも関連している。(2)ASEAN共同体に関するASEANの公式文書には民主主義や人権への言及があるが、これはASEAN諸国も必要と善意にもとづく仲間内の関与については必ずしも否定していないことを示している。(3)もしそうした見方が間違いでないとしたら、同様の考え方を将来の東アジア共同体においても共有しうるか否かが問われることになるであろう。
以上は私が「討論者」の役割を果たすために、過去3年間の東アジア共同体評議会の「政策本会議」の記録を最初から通読し、また、同評議会の伊藤議長の「第4回NEAT総会出席の所感(メモ)」に接するなかで、自然に湧き出たものである。個々の論点のなかには、同じセッションにおける伊藤議長の報告と重なる部分もあったが、それは全くの偶然である。念のために補足すれば、私のコメントが示唆していたのは、「普遍的価値への関与を確保するにはAPTよりEASのほうが望ましいという考え方が有力であるが、実際はその反対なのかもしれない」ということである。
これは現時点での一つの示唆に過ぎない。そもそも40年近い蓄積を背景とする「ASEAN共同体」構想と「東アジア共同体」構想は同列に論じうるものではなく、現にASEAN諸国の参加者からも明示的な同調論は聞かれなかった。またAPTかEASかの議論は他の諸問題とも複雑に関連しており、普遍的価値の観点からのみ決定できるものでは決してない。そして、私自身はAPTかEASかの議論はもちろん、「東アジア共同体」構想そのものについてもいまなお半信半疑の状態にある。
しかし、いずれにしても、「東アジア」と「共同体」という二つの言葉をつなげて考えようとすると、この地域に存在しているさまざまな問題点や可能性に気づかされる。その意味において、今回の「日ASEAN対話」は前回同様、大変有意義であった。
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