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2012-05-29 00:00
市民社会と市場の共存はさほど非現実的な話ではない
入山 映
サイバー大学客員教授・(財)国際開発センター研究顧問
市民社会、つまり民間非営利の活動というのは利益をいくら上げても構わないが、それを仲間内で配分したり配当したりしてはいけない。それならば市場のチャンピオンたる企業の方はどうかと言うと、ある一定期間の配当をしないのはかまわないし、利益を蓄積しておいて解散時に配分するのを禁止するのも良い。しかしその両方を禁止するのはもはや企業ではない、ということになっている。民間非営利の活動というのは、生産活動そのものが組織目的である場合を含めて、なにがしか世のため人のための活動をする、というのが本旨のようなところがあるから、そちらのほうは企業の方の事情はどうかというのが関心事になる。
一般に、企業が本来の事業目的以外のことに資金をふり向けるのは定款違反としてウルトラヴァイレス(ultra vires直訳すればbeyond powerつまり力量を超える、というほどの意味か)の法理によって行為無効とされる、というのが伝統的な法解釈である。すると、要は定款の内容をどのように読むかと言う解釈学の範疇にはまることになるわけで、有名な八幡製鉄の政治献金やスミス社の大学への献金の判例にしても、真っ向からウルトラヴァイレスを否定したのではなく、定款解釈に幅を持たせたと言うべき性格のものだと言って良い。これを歴史的に眺めると、企業にとって本来の義務であるか否かをめぐっては、経済外部性(externality)の内部化(internalization)という傾向が顕著だ。今日では当然の事とされる幼児労働や労働衛生に関する定めについても、いづれもこの過程を踏んでいるのは見やすいだろう。
だから、利益配分や企業活動への再投資だけが利益追求の目的ではない、という市民社会の原則とてそれほど驚天動地の話ではなく、要はオールオアナッシングという議論としてではなく、企業の社会性にどれほどの幅を持たせるか。経済外部性の内部化をどの程度行おうとしているのか、という問いかけだと考えれば、市民社会と市場の共存もさほど非現実的な話ではなくなる。もっとも原理主義者というのはどちらの陣営にもいて、片やフリードマン流のCSR犯罪説があるのと同様に、企業活動は社会から一定の社会義務を履行するという操業ライセンスを頂いて始めて可能になる。だから黒字の時にその一部を社会貢献に、なんていうのはとんでもなくて、赤字であろうがなかろうが、この義務を果たして始めて企業活動は許される、なんていうすさまじいのもある。そういう議論を別にすれば、実は市民社会の論理と市場下における企業論理はさして相容れないほどの乖離がある訳ではないことが知られるであろう。
内部化の要請は社会から発生する。その限りにおいて、社会にどんな声を出させるか、と言う意味においてわれわれは再び「民主主義政治」と同様の状況下にある。実効性を持って社会にある動きをさせる妙薬の様なものがある訳はないのだから、事態を楽観的に見るか、悲観的に見るかによって見通しは変わってくるが、どちらも市民が主体的に動いて世論を、意見を形成するしかない、という点において軌を一にする。それが果たして朗報なのか否かは別にして、一見独自の論理に従って限界利益極大化に突っ走っていた企業でさえ、この大きな流れの中にあるのを認識するのは痛快ではある。理屈だけは解っているがいざそれを実現する具体的ノウハウを持たないと、かえってフラストが溜まる、というのはありかもしれない。そこでも地道な草むしり、石拾いが必要になると言うことに変わりはないのだが。
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