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2012-05-17 00:00
(連載)日本に憲法は無い(2)
加藤 朗
桜美林大学教授
他方改憲派も自主憲法制定や改憲など諦めたほうがよい。前述したように憲法九条は国家と国民の間に交わされた契約ではない。憲法九条をすなおに読めば(憲法は国民と国家の契約だから最大多数の国民が理解できるように、その内容は義務教育を終えた国民、最近の流行り言葉で言えばB層の一般大衆が理解できるレベルでなければならない。憲法学者の解釈は憲法学や自らの権威のための解釈でしかない)、自衛隊は違憲であり自衛権も放棄している。ただし、「力にたいして、力で自己防衛しないという契約は無効である」(『リヴァイアサン』第14章)とホッブズがいうように、国家が自衛権を行使せず国民を守らないという契約は無効である。したがって、武力も自衛権も放棄するという憲法を持った国家は、社会契約説に基づく近代国民国家ではない。もっとも武力以外で国民を護るという契約はありうるという反論が聞こえそうだが、それは国家が暴力の排他的独占主体であるという国家の本質そのものに反しており、そういう共同体は近代国家とはいわない。一種の宗教共同体である。したがって近代国家なら武力以外で国民を守るという契約はありえない。
国家は対外的脅威だけでなく、国民間の暴力を武力で制約しなければならず、対外的には軍事力は行使しないが、対内的には警察力を行使するというのは論理矛盾である。軍事力も、警察力も国家の暴力であることにはかわりはない。だから、もし憲法九条の下では改憲派が懸念するような外敵の脅威に対しては、カントも提唱している民兵組織で対応すべきである。憲法九条は国家の武装を禁じているが、国民の武装については言及してない。国家が武装を放棄している以上、国民一人一人がみずからの責任で自らを護る自衛権は当然認められる。したがって憲法九条の下では国民有志が武装して国土防衛に徹する民兵部隊をつくることの方が、事実上実現不可能な改憲運動をするよりはよほど現実的である。
毎年五月になると護憲、改憲の声が喧しい。もはや年中行事であって、内容空疎な議論が繰り返されている。護憲派が主張するように、護憲運動があったから憲法が護られてきたわけではない。憲法九条を護ったのは、皮肉にも憲法九条が否定する日米安全保障体制である。また改憲派が主張するように、米国から憲法を押しつけられたわけではない。実質的にはともかく形式的には国会で承認したのである。承認する代わりに日米安全保障体制の下で安全保障よりも経済発展を優先させたのである。いまさら憲法押しつけ論を主張するのは対米信義に悖る。いずれにせよ戦後一貫して日本には近代国民国家でいうところの憲法はなかった。あったのは日本人のアイデンティティーとしての憲法九条と、実質的に憲法九条を運用、解釈した米国の対日政策だけである。
さて護憲派、改憲派ともに考えなければならないのは、「国民国家というビッグ・ブラザーが壊死し、リトル・ピープルの時代」(宇野常寛『リトル・ピープルの時代』)となった現状をどのように考えるかである。憲法は国家と国民の約束である。その国家が壊死した現状では国民は国家と約束することはできない。つまり憲法は実質意味をなさず、国民は無憲法状況に置かれる。無憲法状況に置かれる国民は国民足り得ず、リトル・ピープルすなわちホッブズのマルチチュードに解体していくしかない。改憲派、護憲派の運動はそのベクトルは逆向きでも、結局は国家というビッグ・ブラザーの再生を求めた運動でしかない。今われわれに求められているのは、国家との約束である憲法の護憲、改憲の問題ではなく、リトル・ピープル同士の契約をいかに結ぶかという問題である。「神無き地上において秩序は如何に可能か」というホッブズの問いかけをもう一度考えるところからしか、憲法問題の解決はありえない。(おわり)
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