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2006-07-12 00:00
本当に重要なのは、隣人同士としての交流の歴史
東山徹三
団体職員
四条秀雄氏の7月3日付けの投稿を拝見しました。「グローバル化で、日本にも沢山の外国人がやって来ています。そうした経験の中で、今まで知られていなかった真の言語的距離が分かってきました。それを知ることは、東アジア共同体論に重要な視角を与えます」との書き出しで、各国の来日者の日本語能力を分析し、「結論から言いますと、中国や米国は、日本とは言語文化的に遠く、韓国やモンゴルや中央アジアやインドやバングラは、日本に近い、そして、ロシアは中国よりも近いということです」と敷衍しておられます。これをもって「日中は同文同種」とか「アジアは一つ」とかという論を見直すべし、との結論です。しかし、私にはこの論理は全く理解できません。
たしかに補語や目的語が動詞の前にくるウラル・アルタイ語族として、日本語はモンゴル語、トルコ語に近いだけでなく、フィンランド語とも親戚関係です。また、日本人の新生児に必ず現れる「蒙古斑」とよばれる斑は、日本人のほかにもモンゴル人とハンガリー人に現れます。しかしこれはあくまでも言語学・民族学的な考察であって、これをもって中国人と日本人の「距離」をはかり、モンゴル人とくらべて中国人は遠い存在であるとか、「東アジア共同体」論そのものに難色をつけるなどの論理は、不可解と言わざるを得ません。
「基層のところで自然な関係を築ける国が潜在的に存在している」とのご結論ですが、それでは日本がフィンランドやハンガリーにいまさら言語学・民族学的な近親関係を言い立てて、政治的、経済的な特別関係を迫っても相手にされるのでしょうか。笑い話で済まされるのが落ちではないでしょうか。本当に重要なのは、ともに歩んできた隣人同士としての歴史の記憶ではないでしょうか。その中身には、もちろん国と国の戦争の歴史も入ってくるでしょうが、より重要なのは人と人の社会と文化の交流の歴史だと思います。卑弥呼の時代から始まり、漢字や仏教の伝来の例を挙げるまでもなく、日本人の生き方と文化は中国人との交流から広く、深い影響を受けてきました。京都の寺社仏閣を回るまでもなく、それは明白です。東アジア共同体構想に関して議論するときに認識しておきたいことの一つと思われます。
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